朝日丸
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朝日丸(あさひまる)
由来
- 西行法師が出家前の北面の武士であった頃、上皇より拝領した御剣。
- 西行物語によれば、大治2年(1127年)、鳥羽上皇の御所で開かれた歌会に招かれ、勅命により歌十首を詠んだ褒美として「朝日丸」という天子の御剣を赤地錦の袋に入れて下賜されたという。
大治二年十月十日頃、鳥羽殿に御幸ならせ給ひて、始めたる御所の御障子の繪ども叡覽あるに、まことに、優なる御氣色にて、其頃の歌讀だち經信、匡房、基俊、ならびに憲淸などを召されて、此繪どもを題にして、おのおの一首の詠を奉るべきよし、仰せ下されけるに、面々にいとなみ讀まれける(略)かやうに十首奏し申しければ、叡感に堪へさせましましけり。その時の手かき定信、時信を召されてかゝせらる。又憲淸を召されて、頭の辨を以て、朝日丸といふ御劔を、錦の袋に入て給ふ。其外女院の御方に召されて、中納言の局のうけ給はりて、御はしたもの乙女の前をもて、かさね十五の御衣を給はりて、肩にかけて罷かりければ、見るもの上下目を驚かし、うらやまずといふ事なし。
- 憲淸は、当時北面の武士であった左兵衛尉佐藤義清(西行法師のこと)。
ただし保安4年(1123年)に退位した鳥羽上皇の院政は、祖父白河法皇が崩御する大治4年(1129年)からであ。また登場する源経信は永長2年(1097年)、大江匡房は天永2年(1111年)にそれぞれ没しており、事実関係がおかしい。
- 憲淸は、当時北面の武士であった左兵衛尉佐藤義清(西行法師のこと)。
朝日丸(あさひまる)
- 歌舞伎「昔語黄鳥墳(むかしがたりうぐいすづか)」に登場する名剣。
某が家重代の朝日丸は三條の小鍛冶宗近が鍛へたる名剣にして、鯉口を放す時は忽ち闇夜も夜明けの如く数多の鳥啼きわたる。かかる威徳あるを以て、朝日丸と名付けし名剣…
曦丸(あさひまる)
無銘
金象嵌 曦丸
駿州島田広助作
- ハバキ上下に「南無妙法蓮華経」。
- 由来は不詳。
朝日丸
- 明治9年(1876年)に熊本で起こった「神風連(しんぷうれん)の乱」に参加した敬神党隊士・石原運四郎の差料。「肥後国高正造 朝日丸」と在銘。
「敬神党」は旧肥後藩士族の三大派閥の一つで、勤皇党の一派。幕末肥後藩では、学校党、実学党(横井小楠ら)、勤皇党(河上彦斎・太田黒伴雄・加屋霽堅ら)が存在したが、この勤皇党のうち明治政府の方針に強い不満を持つ構成員により結成されたのが「敬神党」。しかし反対派から「神風連」と戯称されていたため、神風連の乱と称されている。
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