投頭巾肩衝
投頭巾肩衝(なげずきんかたつき)
漢作唐物茶入
肩衝
大名物
由来
- これを所持していた村田珠光が、入手した際に被っていた頭巾を投げたためという俗説が有名。
この日用ひられし茶入を投頭巾といふ。こはその昔この技の宗匠とよばれたる紹鴎が始めこの器を見たりし時。歎美のあまり手に持し頭巾を投出しけるより。
(徳川実紀)これは茶人の名を得し珠光といへるが。はじめてみておぼえす頭巾を落せしより名を得し天下第一の名器なりとか。
(東照宮御実紀附録)
実紀では珠光ではなく紹鴎になってしまっている。いずれにしろ、この時代にすでにポピュラーな説だったことがわかる。
- 実際には、珠光が愛用していた投頭巾とともに最後まで大切にしたものであるためという。
彼が遺言に、自分の大切なものは投頭巾とこの茶入(投頭巾茶入)である、歿後我が命日には圜悟の墨跡を掛け、この茶入に揃(茶のよき葉をそろへる名)を入れて、獻茶せよと云つたといふ。これが投頭巾茶入名の由來である。
つまり、頭巾を投げたわけではなく、村田珠光が頭巾の一種である「投頭巾」を最後まで愛用していたためという話。
来歴
村田宗珠
- 珠光ののち、「圜悟の墨跡」、「投頭巾茶入」、「松花の茶壺」、「君台観左右帳記」などは養子の村田宗珠が相続した。
珠光始新田 次ニ宗及文林 其後小茄子所持候 此壺カヘヽ存候テ 此なけつきん圜語一軸死去後迄有 宗珠に被申置候 忌日ニ此一軸をなけつきんヒクツヲ入茶湯ニスヘキヨシ被申置候 惣別数寄ニハ此一種 ナラシバ数寄の眼也 其外之茶入ハ悉名物也
※所々おかしな誤字があるが、原文ママ
万代屋宗安
- 天文のころ堺の万代屋(もずや)彌三へと伝わっており、天正ごろまで万代屋家で所蔵していたことが確認できる。
万代屋
一、ナゲツキン
(唐物凡数)一 肩衝 珠光之なけつきん へらめ四ツ有り 堺もすや宗安に有り
(山上宗二記)
秀吉
- 永禄3年(1560年)までには秀吉の所蔵となっている。
- 肥前名護屋城の山里曲輪で行われた茶会において、この投頭巾肩衝が使用されている。
- また「秀吉自筆道具覚」にも所載されている。
七月□□□ふねにてのちゃのゆ
一、なけつき
(船にての茶の湯)
将軍家
- のち家康の所有となる。
- 慶長17年(1612年)3月26日、家康は茶会を催し、その席でこの投頭巾肩衝を秀忠に譲っている。
大御所の御茶室に御所を迎へ給ひ。御茶進らせらる。日野亞相入道。京極若狹守忠高御相伴す。はてゝふたゝび本城にならせられ。けふの御謝詞聞え進らせ給ふ。そのとき大御所年頃祕藏まします楢柴。投頭巾扇付といへる名器をとり出し給 ひ。御心まかせにとらせ給へと仰ければ。 御所投頭巾をこひうけ給ひて。西城へかへらせたまふ。
- 秀忠より家光へも、この投頭巾肩衝を含む「七宝」を元和2年(1616年)4月24日に譲っている。
台徳院様御他界ハ、廿四日ノ夜四時也、其晝ノ七ツ時分、右の七寶ヲ家光様へ御譲ナサル、
- しかし明暦の大火で焼失してしまった。
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