後藤来国光
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後藤来国光(ごとうらいくにみつ)
短刀
在銘
名物 後藤来国光
九寸二分
- 来一門、来国光作の短刀。
- 享保名物帳所載
後藤来国光 銘あり長九寸二分 松平備中守
この松平備中守とあるは池田輝政の弟なり、松平備中守長吉と云、因州鳥取を領す、其子備中守長幸伊豫松山へ轉じ、其子長常の代に嗣子なくして家絶たり、寛永十八年の事なり
この刀後藤榮乗所持と云、榮乗は六代目元和三年に没す、俗に家彫と呼ぶ金工也
由来
- 金工師後藤四郎兵衛家の6代目、後藤栄乗の所持にちなむ。
後藤祐乗を初代とし、江戸時代には「大判座後藤」として代々栄えた。6代栄乗は元和3年(1617年)没。「家彫」とは「町彫」に対する言葉で、後藤家製作の装剣金工をいう。江戸時代、大名家の正式の拵えにはこの後藤家のものが用いられるのが常であった。
来歴
- 寛永元年(1624年)、金三百枚の折紙がつく。
- 享保名物帳では、享保の頃には長吉系池田家(恒興の三男。輝政の弟の池田長吉に始まる家系)に伝わったとするが、寛永18年(1641年)に池田長常が死ぬと末期養子が認められず無嗣断絶となっている。享保名物帳にも書かれているとおりである。
其子長常の代に嗣子なくして家絶たり、寛永十八年の事なり
- その後長常の弟、長信がかろうじて千石取りの旗本として存続するが、享保のころの池田友政は従五位下筑後守であり、名物帳の記載とは異なっている。
- 日本刀大百科事典では、この「松平備中守」を上総大多喜藩主の松平備前守正久所持であるとする。※「備中守」ではなく「備前守」。
この松平正久は、大河内松平宗家3代目。十八松平のひとつ長沢松平家で、家康の命により大河内秀綱の次男正綱が継いだために、その後は大河内松平家と呼ばれる。享保の頃の3代目松平正久は従五位下、はじめ弾正忠、後に備前守を称した。正久の時に上総国大多喜藩に転封されている。
大河内秀綱の嫡男が大河内久綱(正綱の兄)、久綱の子に三十郎がおり、三十郎は叔父に当たる玉縄藩主松平正綱の養子となっている。この三十郎が後に「知恵伊豆」として知られる松平伊豆守信綱である。
- いずれにしろ、後藤家からの「後藤来国光」の来歴は不明である。
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