影法師
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影法師(かげぼうし)
刀
表金象嵌 影法師
裏銀象嵌 右衛門尉持之
二尺二寸五分
- 表銘に金象嵌で「影法師」、裏銘には銀象嵌で「右衛門尉持之」と入る。
- 「影坊師」
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由来
- 金象嵌「影法師」にちなむ
「影法師」については諸説あり。一説に影法師は影武者を表し、所持していた土屋平八郎昌次が武田信玄の影武者を務めたためという。黒澤明の映画「影武者」では、近習頭「土屋平八郎」が登場し、また影武者のことを「影法師」と呼んでいる。
来歴
- 甲斐武田家臣であり武田二十四将でもある土屋右衛門尉昌次(土屋昌続。平八郎、右衛門尉)が所持していた刀。
土屋昌次
- 土屋昌次は天文13年(1544年)に金丸筑前守虎義の次男として生まれる。永禄4年(1561年)の川中島の戦いの戦功により、桓武平氏三浦氏流土屋家の名跡を継いだとされる。
- 昌次は「奥近習六人衆」の一人として信玄の側近くに仕えたが、天正3年(1575年)の長篠の合戦で養父共々討ち死にしてしまう。
金丸虎義─┬金丸平三郎昌直 ├土屋昌次(昌続) ├秋山昌詮 ├金丸定光 ├土屋昌恒──土屋忠直─┬土屋利直【上総久留里藩】 └秋山源三郎 └土屋数直【常陸土浦藩】
奥近習六人衆は武田信玄の側近中の側近。土屋右衛門尉昌次、三枝勘解由昌貞(守友)、曽根内匠昌世、武藤喜兵衛(真田昌幸)、甘利左衛門尉信忠、長坂源五郎昌国(長閑斎の子)。
土屋昌恒
- その後土屋氏の名跡を継いだのが土屋昌次の弟、土屋昌恒(右衛門尉。金丸筑前守虎義の五男)とされる。昌恒は、武田勝頼に従い東海・関東方面での戦いに参加する。
- 天正10年(1582年)織田信長の甲州征伐で一門衆や多くの家臣が離反する中、土屋昌恒は最後まで従い、天目山で武田勝頼が自刃した際には殉じている。このとき自刃の時間を稼ぐため、片手千人斬りをしたという逸話が残る。
あるいは36人を崖下に斬って落としたとも言う。この川の水が3日もの間血に染まったことから、「三日血川」(現、日川)と呼ばれたという。
久留里藩土屋家
- 土屋昌恒の遺児、土屋平三郎忠直はのち家康に召し出され、上総久留里藩2万石の大名となった。
- 刀「影法師」は、久留里藩土屋家に伝わり代々相伝された。
- 現存
他の土屋家刀剣
- 久留里藩土屋家、および常陸土浦藩土屋家には多くの刀剣が伝わっており、多くが土浦市立博物館所蔵として現存する。
国宝
- 短刀
- 銘「筑州住行弘/観應元年八月日」7寸7分5厘。土屋政直の正室幾宇子の父、丹波篠山藩5万石の藩主松平若狭守康信から贈られたもの。 昭和16年(1941年)7月3日に旧国宝指定。昭和32年(1957年)2月19日国宝指定。茎は生ぶ、先栗尻、鑢目筋違、目釘孔1つ。※観応元年は西暦1350年。
土屋政直は寛永18年(1641年)の生まれ。土浦藩主土屋数直の長男として生まれ、駿河田中藩を経て土浦藩に復帰し、最終的に9万5千石となる。元禄11年(1698年)に老中首座となり、綱吉・家宣・家継・吉宗の4人の将軍に仕える。8代将軍吉宗は将軍になると老中達に口頭試問をしたが、政直のみが3問中2問を答えることができ、なんとか恥を掻かずに済んだという。
重要文化財
- 太刀
- 銘「恒次」古青江恒次の作。水戸光圀が隠居の際に、水戸少将より贈られたもの。昭和12年(1937年)5月25日旧国宝指定。
- 太刀
- 銘「信房」信房は古備前と古一文字が知られるが、本刀は古一文字信房の作とされる。享保3年(1718年)年、土屋政直が老中を致仕し隠居する際に、松平新太郎より贈られた。
- 太刀
- 銘「守家造」備前守家の作。元禄7年(1694年)年4月10日、5代将軍綱吉が土浦藩邸に御成になった際に土屋政直が拝領した。
- 短刀
- 銘「國光」新藤五国光の作
その他
- 鍵鑓
- 土屋昌恒が天目山で奮戦した際に、相州助広の槍を所持していたといい、この槍がそれだという。土屋家に伝来し、切り込みが2ヶ所あったという。なお塩首に鍵が付いていたため、鍵鑓とも呼ばれたという。
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