幸寿丸
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幸寿丸(こうじゅまる)
小太刀
刃長一尺八寸一分
満願寺所蔵
由来
- 幸寿丸は平安時代中期の武士藤原仲光の子。藤原仲光は多田満仲(源満仲)に郎党として仕えていた。
- 多田満仲は、近江守源俊の娘に産ませた八男、美女丸を僧にするために中山寺(兵庫県川西市)にいれる。
つまり美女丸は、源頼光や源頼平の同母弟にあたる。貞元2年(977年)生まれ。満仲は延喜12年(912年)生まれなので65歳の時の子となる。
- 美女丸が15歳になったある日、満仲は美女丸に修業の成果を尋ねる。
- しかし和歌や管弦はもとより、経文も読むことができなかったため満仲は怒り、郎党の藤原仲光に殺害を命じる。
- 藤原仲光は主君の子を斬るに斬れず、ついに美女丸を比叡山に逃しその身替りに我が子幸寿丸の首を討って満仲に差出す。
- 後にそのことを知った美女丸は発奮し、阿闍梨へと上り詰めるという話の筋になっている。歌舞伎十八番「仲光」などの演目となっている。
来歴
- 源賢が再興した満願寺(摂津多田庄、現兵庫県川西市満願寺町)に幸寿丸の佩刀が奉納され伝わる。
満願寺は、聖武天皇の勅願により勝道上人が創建したという。平安時代中期には源満仲がこの寺院に帰依し、以来源氏一門の祈願所として栄えた。境内には坂田金時の墓、美女丸・幸寿丸・藤原仲光の墓などが残る。
- 現在も満願寺所蔵。
史実の美女丸
- ここに登場する「美女丸」とは実在の人物で、多田満仲の末子として生まれ、やがて比叡山に入り、恵心僧都源信について修行を積む。長徳2年(996年)には阿闍梨に上り詰め、源賢阿闍梨と呼ばれた。長和元年(1012年)に元慶寺別当。長和2年(1013年)に法橋、寛仁元年(1017年)には法眼となっている。(多田法眼、摂津法眼、八尾法眼)
恵心僧都源信は、日本の浄土教の祖とされる天台宗の僧。浄土真宗においては七高僧の第六祖とされ、源信和尚、源信大師と尊称される。「往生要集」を記し、極楽浄土、地獄などの観念を広く普及させ、後世に大きな影響を与えた。「源氏物語」に登場する”横川の僧都”のモデルが源信とされている。
- 長和4年(1015年)の藤原道長の50歳を祝う道長五十賀においては、散花律師の役を勤めている。
長和四年十月廿五日
壬寅。暁。此日被供養大般若一部。壽命経五十巻。二界曼荼羅。導師大僧都慶命。呪願少僧都扶公。唄少僧都文慶。如源。散花律師心誉。法橋源賢。引頭律師尋圓。永圓。(略)
- なお美女丸こと源賢の父である多田満仲は、永延元年(987年)に多田の邸宅において郎党16人及び女房30余人と共に出家して満慶と称し、多田
新発意 と呼ばれるようになる。この出家について、今昔物語集では末子源賢の導きによるものとする。※摂津守源満仲出家語
- 源賢は歌人としても名を残しており「後拾遺和歌集」に二首入集するほか、家集「源賢法眼集」がある。
思ひきや わがしめゆひし 撫子を 人の間垣の 花とみむとは
秋はただ けふばかりぞと ながむれば 夕暮れにさへ なりにけるかな
(後拾遺和歌集)
- 寛仁4年(1020年)示寂。
【嵯峨源氏】 嵯峨天皇─┬大納言源定──右大弁源唱──源俊──源満仲室 └仁明天皇───文徳天皇┐ ├─源頼光…(摂津源氏の祖) │ ├─源頼平…(柏原氏・檜坂氏・匂当氏など) ┌────────────────┘ ├─美女丸(源賢阿闍梨)…(美女堂氏) │ 【清和源氏】 │ └─清和天皇───貞純親王───経基王─────源満仲(多田満仲) (六孫王源経基) 藤原仲光──┬塩川仲義(塩川氏) └幸寿丸…佩刀が本刀「幸寿丸」
美女丸の子孫
- この美女丸こと源賢阿闍梨は、のち河内若江に移り住み、そこで美女山薬師寺(巨摩堂)を開いたという。また子孫は
美女堂 氏を名乗った。天保2年(1831年)に子孫の美女堂勝喜が建立した「美女堂氏遺愛碑」が今も大阪府東大阪市若江南町に残る。
藤原仲光の子孫
- また摂津国西成郡十八条村(元大阪市淀川区十八条)の藻井氏は藤原仲光の子孫だという。永禄3年(1560年)に仲光の15世藤原仲俊が藻井姓に改め、22世の藻井光成が摂津国西成郡十八条村に移り住んだ。24世で光成の孫の介光は産前産後に効用がある「十八条血の道薬」を作り、薬屋を営み大いに繁盛したという。現在も「十八条藻井生々堂」として製薬業を営んでおり、幸寿丸が首を刎ねられた1月18日(旧暦12月23日)には、毎年法要を催しているという。
歌舞伎十八番「仲光」
- この悲哀は歌舞伎となり、歌舞伎十八番「仲光」(
二代源氏誉身替 )に幸寿丸が登場する。
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