小池正宗


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 小池正宗(こいけまさむね)

脇差
朱銘 正宗/本阿(花押)
小池正宗
皇室御物

  • 享保名物帳所載

    小池正宗 無銘長一尺二分半 代二千貫 御物
    本多美濃守殿上京の刻小池通りと云所の旅館にて御求め、孫中務殿へ遣され、延宝七年家綱公へ上る、表裏樋有之

    • こちらの名物帳の「御物」表記は徳川将軍家を指す。

 由来

  • 本多美濃守忠政が、京都小池通りの旅籠で購入したために名付けられる。
    現在の御池通のこと。二条殿の池を「小池」と呼び、「小池通」と呼んでいる書籍が存在する。

 来歴

 本多忠政

  • 本多忠政(平八郎)の孫、本多中務大輔政長が逝去した際、その遺物として延宝7年(1679年)7月に嗣子の平八郎忠国が将軍家綱に献上した。
     本多忠勝─┬本多忠朝──本多政勝──本多勝行──忠英──忠良
          └本多忠政         池田綱政の娘
             ├──┬忠刻(早世)   ├──本多忠孝━━忠良
           ┌熊姫  ├政朝──政長━━忠国
    松平信康   │    │
      ├────┤    │ 徳川頼房┬松平頼重[讃岐高松藩初代]
    徳姫(信長娘)│    │     ├徳川光圀[水戸2代]
           │    │     └松平頼元
           └登久姫 └亀姫     ├──┬松平頼貞[陸奥守山藩水戸松平家]
            │     ├────嘉禰  └忠国(本多政長養子)
            ├───小笠原忠真
         小笠原秀政
    
    本多忠国は陸奥守山藩主・松平頼元の次男に生まれた人物。生母嘉禰は小笠原忠真の娘であり、母系をたどるとその母は円照院亀姫、祖母は松平信康の次女熊姫と繋がる。
    また水戸藩初代藩主・徳川頼房の孫であり、2代藩主・徳川光圀の甥にあたる。
    大和国郡山藩主本多政長(忠勝系本多家宗家)の養子となり、家督相続と同時に福島15万石に転封、その後姫路15万石に転封となる。

 徳川綱吉

  • 綱吉は、天和元年(1681年)11月に長男徳松の髪置きの祝に授けている。徳松は早世するため戻る。
    徳川徳松は、当時館林藩主であった綱吉の長男で、生母は小谷正元の娘・伝(瑞春院)。同母姉に鶴姫(徳川綱教室)。延宝8年(1680年)5月、父が伯父の4代将軍家綱の継嗣となったため、2歳で家督(館林徳川家)を継いだ。同年11月27日に神田の父の屋敷から江戸城西御丸に移り、神田邸の家臣団も付き従った。しかし天和3年(1683年)、5歳で夭折した。
  • 寛政2年(1790年)4月に上覧。

     四月廿四日、左之御道具
       上覧ニ相廻ル、御名物御道具、是者帳面ニ而、
     
      一、小池正宗
        是ハ本多美濃守上京之節小池通リと言
        所旅宿ニ而求ル、延宝七年為遺物上ル、
     慶安四卯年六月十八日  大猷院様御遺物、

 徳川家斉

  • 11代将軍徳川家斉は、「尊号一件」でこじれた朝廷との関係を取り戻すべく、この「小池正宗」と「早川正宗」を朝廷へ贈っている。
    尊号一件とは、光格天皇の父である閑院宮典仁親王への尊号贈与に関する紛議事件。
  • この時、経緯が経緯だけに御腰物方では公式記録である「御腰物帳」にどのような理由で贈ったかと書くべきか迷い、上司の近藤吉左衛門に伺いを立てたところ、「御進献」とだけ書くように命じられた。
  • 献上が決まると、幕府では本阿弥光一に命じて差表に「正宗」、裏には「本阿(花押)」と朱銘を入れさせ、さらに白鞘にもただ「正宗」とだけ記させ、三千貫の折紙だけは付けさせたという。

 朝廷

  • 「御進献」の刀は、厳重に梱包された上で寛政6年(1794年)11月10日に御目付役成瀬吉右衛門に渡され、成瀬はこれを護衛して東海道を上った。
  • 同時に献上された「早川正宗」は嘉永7年(1854年)4月の京都の大火で焼失したが、本刀「小池正宗」は現存し御物となっている。
  • 御物調書」にも、当時の今上である光格天皇の御料であると記されている。

    43.光格天皇御料
    相模国正宗御脇指(名物 小池正宗)
    鎌倉時代
    寛政6年
    賢所御神楽(徳川家斉献上)
    御物調書


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