寺沢広高
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寺沢広高(てらざわ ひろたか)
戦国時代から江戸時代前期にかけての武将
肥前唐津藩初代藩主
従四位下、志摩守
- 肥前唐津藩の初代藩主。
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生涯
- 朝鮮の役では肥前名護屋城の普請を務め、出征諸将や九州大名への取次(外交窓口)を担当し、長崎奉行にまで出世するが、小西行長と共にいわゆる武断派から憎まれている。
- 秀吉死後は徳川家康に近づき、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与した。戦後に関ヶ原の戦功によって天草4万石を加増された。
- 慶長7年(1602年)から7年の歳月を費やし唐津城を築城、天草の飛び地を含めると12万3千石を領する大名となり、天草領を治めるために富岡城を築くなどし、唐津や天草の土着豪族を弾圧したが、その結果、唐津は安定し繁栄した。
- 寛永10年(1633年)死去、享年71。
- 後を継いだ寺沢堅高は遺領を相続し2代藩主となるが、先代から続く天草地方のキリシタン弾圧を厳しくしたことで、寛永14年(1637年)に島原の乱が勃発した。乱の鎮圧後、失政の責を問われ天草領4万石を収公されたに留まったが、出仕も許されず、面目を喪って生き恥をさらす失意の日々を過ごし、正保4年(1647年)に江戸の海禅寺で自害した。
- 嗣子はなかったため寺沢家は断絶し、唐津藩は改易となった。
その後、唐津の地には大久保忠隣の孫の大久保忠職、大給松平家の松平乗久、土井利益(土井家宗家5代)、水野忠任(4代後の老中水野忠邦の代に移封)、小笠原長昌と入れ替わり最後の藩主小笠原長行が老中に抜擢されるが明治を迎えた。
逸話
性格
- 寺沢広高は行動派の人物で、「下に命令するところを、自ら先に立って行う事を善しとす。身をもって教えれば、口でとやかくいうよりも下僕はよく従うものだ」と語っている
- 毎朝寅の刻(午前4時頃)に起きて、卯の刻(午前6時頃)には庁に顔をだし、馬場に出て騎乗してから食事をとった。そして槍刀の稽古をした。冬の寒の前後は弓の達人を若者たちのために招いたが、自らその先頭に立って的の巻藁を撃った。夏は鉄砲の腕を磨いて水泳をやり、皆と一緒に一汁一菜の食事をとり、武芸に励む時は粥を常に家臣と食した。公用や国政に急務が無ければ、酉の刻(午後6時頃)には寝床に入ったという。
- ある時「銭勘定も米の升目も知らなかった者が関ヶ原で潔く死に、この者こそ真の武士である」と褒め称えていたのを聞いて、「それは違う。世を迂闊と心得た役立たずだ。そうした者は生活に困って飢えをしのげず、武具も売り払ってしまう。むしろ関ヶ原で死んで幸せだった」と時代の見えない精神だけの武士として批判した
倹約・政治
- 寺沢広高は江戸から帰国した際には国中の視察を怠らず、普請方に命じて水害や日照りに備えさせ、税金や労役で不正が無いように目を光らせた。唐津は畑が広く、麦がよく取れたので5月と6月は家中の食事は麦飯だったが、広高も麦飯を進んで食べた。
- また倹約に務め、夫人と共に木綿の衣服を好んだ。年初めなどの行事でも塩魚、干し魚を用いた。広高がここまで倹約に務めたのは優れた家臣を召し抱えるためであり、技能優れた武士を愛し多く登用した。広高時代の唐津藩には1000石取りの家臣が40人もおり、その士風を慕って集まる者も多かったという。
- 新田開発を行う際、防風林を造成し手厚く保護した。佐賀県唐津市の唐津湾沿岸に広がる松原(防風林)は、藩政時代は「二里松原」と呼ばれており、明治期に名勝「虹の松原」と呼ばれるようになった。現在は日本三大松原のひとつで特別名勝に指定され、日本の白砂青松100選、日本の渚百選、かおり風景100選、日本の道100選にも選ばれている。
キリシタン
- 奉行時代の1594年に寺沢広高はキリシタンに改宗(洗礼名アゴスティニョ)したが、1597年の日本二十六聖人処刑を契機に棄教。
- その後は幕府の意向を汲んで積極的なキリシタン弾圧を行い、息子の寺沢堅高の代には寛永14年(1637年)の島原の乱が起こる契機となっている。
志摩様
- 寺沢広高の墓所は唐津市鏡の鏡神社境内にある。墓所は地元では志摩様(しまさま)として慕われ、毎年春、桜の花見の時期に小宴が催されてきた。
親友との約束
- 寺沢広高は若いころ、親友の安田国継(安田作兵衛)と立身出世を夢見、「どちらかが国主になったら一方は10分の1の禄をもって家臣にしよう」と約束した逸話が有名。
- 広高は秀吉、国継は明智光秀に仕える。本能寺の変では、国継は先鋒となり出陣。信長を槍で攻撃し、行く手を阻んだ森蘭丸成利に十文字槍で下腹部を突かれるも、これを討ち取る功を挙げ、その活躍から明智三羽烏の一人に数えられた。
- 山崎の戦い以降、安田国継は没落し天野源右衛門と改名して浪人する。羽柴秀勝、羽柴秀長、蒲生氏郷と仕えたがいずれも長続きせず、蘭丸の兄である森長可にも仕えるが、小牧・長久手の戦いにて長可が戦死すると森氏を出奔する。続いて立花宗茂に仕え1万石を要求し朝鮮の役にも出兵するが、旧臣たちと反りが合わず出奔。豊臣秀次に仕えるがここでも出奔している。後に朝鮮の役での立花家の戦功を「天野源右衛門覚書」(立花朝鮮記)を記している。
- いっぽう寺沢広高は順調に出世し、唐津8万石を与えられた1593年(文禄2年)以後に、約束通り10分の1の8000石で天野源右衛門(国継)を召し抱えて約束を果たしたという。
- 天野源右衛門(安田国継)は慶長2年(1597年)に死去。死因は頬の出来物の悪化を苦にしての自害というが、死んだ日が奇しくも織田信長の命日と同日であり、信長を刺した祟りと噂された。
- 信長に一番槍を付けたという安田作兵衛国継の槍は、「作兵衛の
管槍 」として現在唐津城の郷土博物館に展示されている。- 管槍とは、槍に管を取り付けその管の部分を左手で握り、突くときには右手で持った柄が素早くすべりでるように作られた槍のこと。
関連項目
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