寒暈刀
寒暈刀(かんうんとう)
刀
平戸住正則作
二尺九分
- 「本庄武器簿」に載っていたという。
本庄武器簿曰、黑太刀、刃長二尺九歩、反五歩、正則作、
莖に寒暈の二字金象嵌
由来
- もとは平戸藩の松浦将監信純の枕刀。
- 寛永16年(1639年)8月のある夜、夢中に何かが顔に触るので枕刀で押し退けること四回に及んだ。翌朝刀を見ると物を切った痕跡があり、あたりに奇妙な足あとが残っていた。
- それで妖怪を斬ったと評判になり、慶安5年(1652年)4月翠厳和尚(翠巌宗珉)が「寒暈」と命名し、それをナカゴに金象嵌した。
此御刀は、老公曰、其始族臣松浦信純の物なり。自から挺て妖魅を斫りし事有るを以て天祥院殿(松浦重信)の御物となる。是より後定悼公(松浦政)に傳り常に御座右にありて或時霊異を顕はせり。公卒て後予(松浦静山)に傳はる、莖に寒暈の金字を嵌るゝは信純の時已に爲せし者と覺ゆ。
来歴
- のち、平戸藩主松浦鎮信の愛刀となった。
松浦鎮信は平戸藩4代藩主松浦重信。3代藩主松浦隆信の子で、隠居後に曽祖父(無外庵宗静)と同じ諱に改名している。元禄16年(1703年)没。
- 寒暈刀はそれからも奇瑞を顕したので、"挺丸(ぬけまる)"と改められた。歴代藩主たちは、脇差にしたり太刀にしたりして愛用したという。
この刀神氣屢々現はるゝを以て其名を挺丸と更む。先君の時は脇指にして鞘には白き鮫皮をかけられたり、今は太刀造にして挺丸の太刀と呼ぶ。
又先師書牘に曰、挺丸の太刀は先大人常に帯させひ給けるを、隠れさせ給ひて淸(※松浦静山)に傳はりたり。往年旅行せし頃帯て有りしを、先生(※翠巌宗珉)に示して時に語れること有しに、頓て其言を記として贈らる、其文
覲平戸侯佩剱記
己酉冬十月念一日、余謁平戸侯于浪華邸次、公語、其先世一執政松浦某家蓄一剱、夜常置之枕側一夜睡中覺其剱室掛帯數觸其頭、然心未以爲異、其晨有同族大夫某來將入門、見血跡如獣蹄若小兒足痕者滿地、心大異之、急入其寢室視之、主人尚未醒、亦有血痕如門前者因搖醒以問之、主人亦不知其何故、視其剱夜中自出室一尺矣、因知剱有霊、夜爲主人斬魅也、剱後歸公家、公祖諱某甚寶愛、嘗遇災、急遁免、憶遣其剱、意頗恨恨、而其剱俄帯在腰間云、其剱今尚傳、余佩之、其明日命余同舟泝澱水、舟中出其剱以示余、剱光精螢大有神彩、余乃知公前日所語之非誣也、平安皆川愿識
武器簿に松浦信純と云ひしは將監と稱す、今の主殿信孝の祖なり。天祥公のときの執政の第一なり。佩劍記に同族大夫と記せしは長嶺某なり、名は忘れたり、大夫には非ず者頭なりし。又公租以下三十字これは先大人の御事也。災とは明和五年の事にて、大人は寝所に夫人と臥し給ひしに、寒暈の刀は袋棚の上別に刀架を置き挂られたり。予も幼少の頃なれど能くこれを記憶す。又大人の枕頭には常に佩ぎ給ふ雙刀を置き給ひしが、永巷はこの御寝所と板塀を境てと近く、且其の樓上より火發して御寝所に吹覆けるゆゑ、夜中といひ大人取敢へず枕邊の兩刀を帯し、夫人を扶けて遁れ出で給ひ、外庭の池邊に退き立つ。事不意に出でたれば棚上なる寒暈の刀は取出られず、已に焼亡せりと嗟嘆せられて、腰間を見給へば如何にしてか佩び給ひしや、枕頭の御刀にはあらず寒暈の御刀御腰にぞ有ける。これ武器簿に或時霊異ありと云ひしは此事なり。
- 肥前平戸城主松浦家の刀。
- 松浦静山が佩用しており、その時「覲平戸侯佩剱記」を書かせている。
翠巌宗珉(すいがんそうみん)
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