大波国俊
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大波国俊(おおなみくにとし)
刀
無銘 伝来国俊
二尺二寸一分五厘
- 木村長門守重成の佩刀。
由来
- 刃紋は直刃ながら、鎺元に五の目丁子の乱れ刃を長く焼いており、それが波浪を思わせるため「大波」と名づけたとされる。
来歴
- 木村重成が、姉婿である猪飼野左馬之助に送った元和元年(1615年)4月6日付けの手紙によれば、木村重成が13歳で元服した時、家康がその祝に本多忠勝に持たせたもので、無銘ながら来国俊とされていた。
- この手紙は京都多門院に残されていたが、後に写されたものが兵庫県猪名川町の個人宅に残る。
- 第141話「木村重成書状写」/猪名川町
- 慶長20年(1615年)4月、来る大坂夏の陣で討死の覚悟を決めた重成は、義兄の左馬之助にこの「大波国俊」を、また実姉には香炉を贈っている。
- 翌月6日には若江(八尾・若江の戦い)において華々しい戦死を遂げる。
木村重成は、首を打たれた際に胃の中のものが逆流するのは武士の恥とし、前夜から固形物を絶っていた。さらに重成の妻は兜に名香を焚き染めたため、首実検で家康のもとに運ばれた時に重成の頭髪から香の香りが漂った。このため、家康はこれぞ武士の心構えであると褒め称えたとされる。
- 猪飼野左馬之助は重傷を負ったためすでに戦場を去っていた。
- のち猪飼野左馬之助の子孫は、世を憚り「幕谷」と名を変え、道村に隠れ帰農した。
- 戦前まで、その子孫の家に木村重成の書状と「大波国俊」が伝来した。
「猪飼野」の名は大阪府大阪市平野川旧河道右岸一帯(現在のJR鶴橋駅の南東側)に残る。この猪飼野に代々木村権右衛門を名乗る富豪がおり、同家では左馬之助の嫡男木村権右衛門重則(幼名左馬次郎)を家祖とする。17代目は東本願寺に金を貸し、借金のカタに御本尊を差し押さえたため"鬼権"と呼ばれた。さらに「猪飼野の家から生駒の山すそまで(約15km以上)、他人の土地を踏まずに歩いて行ける」と豪語したという。また大塩平八郎の乱に参加した木村司馬之助は、この木村権右衛門の分家であった。
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