大垣正宗


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 大垣正宗(おおがきまさむね)


無銘 正宗
名物 大かき正宗
2尺1寸1分(63.9cm)
個人蔵

  • 享保名物帳所載

    大垣正宗 長二尺一寸一分 代金十五枚 上杉民部大輔殿
    由緒不知

  • 鎬造り、庵棟。やや細身で反り浅い。鋩子乱れ込む。表裏に二筋樋を掻き流す。なかご大磨上、先剣形。目釘孔2個。
    なお享保名物日向正宗(無銘正宗の短刀。堅田正宗)」は、別名「大垣正宗」とも呼ぶが、この2尺1寸1分の本刀「大垣正宗」とは別物である。
Table of Contents

 由来

  • 享保名物帳には「由緒不知」と書かれている。
  • 戸田氏鉄が美濃大垣を所領としたことにちなむという。
  • ただし上杉家腰物帳では「大柹正宗」と記し、「柹」は柿の正字であることから「大垣正宗」ではなく「大柿正宗」が正しいことになる。
    大垣の地名は、古くは「大柿」と書かれその後「大垣」と混在する期間が続いた。関ヶ原の戦いの前、大垣城に篭った西軍を攻める途上、禅僧が大きな柿を献上した所、家康は「大柿(大垣)が手に入ったぞ」と近習らに賜ったという逸話が有名。「西の保を御通有し時、美濃安八郡八條村瑞苑寺の禅僧、木練柿一折抗瀬川の道にをいて献じければ、家康公其柿を一御手にとらせ給ひて「大柿既に手に入たる」と悦びたまひて、其餘は御近習に賜はりける(黒田家譜)」

    大垣古は大柿とも書け。蓋し柿、垣國音相通ずるを以て互用せるものか。前記興国元年及び正平廿四年の東大寺文書には大柿と記し、順念寺繍拂の銘には安八郡大井莊東大寺領大柿とあり。織田信長紀、安土創業録、太閤記等には何れも大柿城と記せり。(略)
    然れども文安・寶徳の東大寺文書には大垣と記し、永禄四年八月快川文書にも大垣と書し、また等覺坊縁起書には「天正の頃大垣城主一柳伊豆守縁故あるを以て云々」とあり、禪桂寺縁起にも「大垣城主石川長門守建立」とあり。土岐累代紀、川角太閤記、東照宮年譜、美濃國諸舊記等には何れも大垣と書せり。是を以て之を勸れば、古來大柿・大垣兩用せしこと明かなり。
    (大垣市史)

 来歴

  • 大垣城主であった戸田家伝来の名刀で、戸田氏鉄の時に献上したという。
    なお戸田氏鉄が大垣城主となるのは寛永12年(1635年)7月28日である。「寛永十二年乙亥七月二十七日戸田采女正氏鐵公に大垣城を賜ふ。封邑十萬石。松平越中守定綱移封の後を受けたるなり。」。その為、戸田氏が大垣城に入った後に「大垣正宗」と号したのであれば、以下の来歴と矛盾することになる。なお大垣城は古来美濃と近江を結ぶ交通の要衝で、斎藤道三と織田信秀が争奪戦を行ったこともある。信長の時代には西美濃三人衆の氏家直元・直昌が城主となっている。秀吉の時代には池田恒興、豊臣秀次、豊臣秀長、加藤光泰、一柳直末、豊臣秀勝、そして伊藤盛正と豊臣政権の重鎮が城主となっている。関ヶ原の際には伊藤盛正は西軍につくが、三成が決戦の地を関ヶ原と定めて大垣城を放棄したため東軍の手に陥ちた。江戸時代には石川氏、久松松平氏、岡部氏らが入った後に戸田氏が10万石で入り幕末まで続いた。
     とすると戸田氏が大垣城に入る以前に本刀には「大垣(大柿)」の名が付いていたものを戸田氏が入手し献上したという可能性が高いが、正確な由来は不明。
     なお大垣藩主となった戸田氏は三河の多米戸田氏の一族とされるが、戸田氏鉄の父戸田一西の出自には諸説ある。
  • 異説に、元は最上家の所持で、文禄3年(1594年)に最上家親が元服した際に家康に献上したとする。
    駿府御分物帳に書かれている以上、この説に従うのがもっともであると思われる。しかしこの場合、「大垣」という名前の由来がわからなくなる。上記歴代の大垣城主のいずれかから譲渡されたものか。
     最上家親は天正10年(1582年)の生まれ。家康の偏諱を受け元服、文禄4年(1595年)から秀忠に仕える。慶長8年(1603年)に兄の義康、そして慶長19年(1614年)に父が病死すると、その跡を継いで最上氏第12代当主、山形藩第2代藩主となるが、元和3年(1617年)3月6日急死する。

 将軍家

  • 家康から秀忠に伝わる。

    大かき 正宗 駿河
    駿府御分物刀剣元帳 中之御腰物)

    「駿河」は最上駿河守家親より献上されたことを示すとする。この正宗には分与先(尾張・駿府・水戸)が書かれていないため、将軍家(江戸城)に残したものとわかる。

 上杉家

  • 元和9年(1623年)2月3日上杉定勝が元服した際、秀忠は定勝を従四位下・侍従兼弾正少弼に叙任し、祝いに本刀を贈っている。※ただし享保名物帳では「由緒不知」とする。

    大柹正宗 無銘 二尺一寸一分両面二本樋
    御由緒
    一、元和九年正月十三日 定勝公御元服の節、将軍秀忠公ヨリ御受領
    一、茂憲公戊辰ノ役之ヲ帯セラル
    御重代三十五腰ノ内
    (上杉家腰物帳)

    上杉定勝は上杉景勝の嗣子。母桂岩院(四辻公遠の娘)は定勝の生後3ヶ月後に亡くなっている。幼名玉丸。慶長15年(1610年)5歳の時に秀忠にお目見えし、千徳の名を拝領する。元和9年(1623年)正月13日に元服し、諱を定勝とする。2月3日に登城して挨拶を済ますと、安心したのか、父景勝は3月20日に米沢城で没。享年69。5月16日、定勝は父の跡を次いで家督を相続し2代米沢藩主となった。

  • 上杉家では、この刀を「上杉家御手選三十五腰」のひとつに入れ大切に伝えた。
  • 最後の藩主上杉茂憲は、維新の際にはじめ官軍に抵抗したが、のち降って出羽庄内攻めに加わった。茂憲はこの戊辰戦争でこの正宗太刀拵えをつけて佩用したという。


 駿河正宗

  • 同物ではないかと思われる正宗。※ただし長が異なる。
  • 本阿弥家の「留帳」に、「駿河正宗」という刀剣が載っている。詳細はまったく不明だが、もしかすると大垣正宗と同物の刀なのかも知れない。

       御物
    金参百五十枚 駿河正宗
      スリ上無銘、二尺三寸一分
    (留帳)

 戸田氏鉄(とだうじかね)

  • 天正4年(1576年)三河仁連木の生まれで、多米戸田氏は祖父の代から松平家に仕えている。父は戸田一西。
  • 氏鉄も家康の近習として仕え、文禄4年(1595年)10月21日、従五位下采女正となっている。
  • 関ヶ原の戦いに従軍しており、慶長8年(1603年)に父一西の死により家督を継ぎ、近江膳所藩主となる。
    • 父一西は、慶長6年(1601年)2月に近江膳所藩主。藩政安定のために紅しじみ(瀬田しじみ)漁を奨励。一西の通称である左門に因んで「左門しじみ」と呼ばれ、京都では戦前までしじみ汁が出るのが通例となったという。
  • 氏鉄は、大坂の役で居城の膳所城の守備に徹し、戦後元和2年(1616年)摂津尼崎5万石へ移封される。
    ※家康薨去時の「駿府御分物帳」に記載があるということは、「大垣正宗」を戸田氏が献上したとすれば、父一西が死んだ慶長8年(1603年)以後、遅くともこの頃までの献上ということになる。
  • 美濃大垣藩主であった松平定綱が5万石の加増を受けて桑名城に移ったのに伴い、寛永12年(1635年)7月28日、氏鉄は美濃大垣10万石へ移封された。伺候席は帝鑑間。
  • 4代将軍徳川家綱誕生の際の臍の緒を切断する箆刀の役を務めている。
  • 慶安4年(1651年)11月28日に隠居し、入道して常閑と号す。明暦元年(1655年)、80歳で大垣において死去。

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