城和泉正宗


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 城和泉正宗(じょういずみまさむね)


相州正宗
金象嵌銘城和泉守所持(号 津軽正宗
正宗磨上本阿(光徳)
2尺3寸3分5厘(70.6cm)、反り7分5厘
国宝
東京国立博物館所蔵

  • 正宗作中、最も正宗らしい代表作とされる。
  • 江戸時代初期の刀剣鑑定家、本阿弥光徳正宗作と鑑定し、慶長14年(1609)に埋忠寿斎が研ぎ上げて金象嵌の銘をほどこしたと記録にある。
  • 中心は大磨上、差表に「城和泉守所持 正宗磨上 本阿(花押)」と本阿弥光徳の金象嵌が入る。
  • 鎬造り、庵棟。差表の腰に湯走りあり。

 由来

  • 銘にある「城和泉守」は、武田信玄の家臣であった城昌茂(じょうまさもち)のこと。
  • 城和泉守昌茂が所持していたことから「城和泉正宗」と呼ばれる。

 来歴

  • 城和泉守昌茂所持。
  • 享保名物帳には記載されていない。
  • その後「城和泉正宗」は奥州弘前藩主の津軽家に伝来し、「津軽正宗」の号がある。いつごろ津軽家に伝来したのかは不明だが、同家の刀剣台帳からみてかなり早い段階で伝わったと見られている。
  • 昭和8年(1933年)7月25日重要美術品指定、伯爵津軽義孝所持。

    太刀 金象嵌銘 城和泉守所持 正宗磨上本阿花押(光徳) 伯爵津軽義孝
    (昭和8年文部省告示第二百七十四號)

  • 昭和11年(1936年)9月18日旧国宝指定、伯爵津軽義孝所持。

    刀 金象嵌銘 城和泉守所持 正宗磨上 本阿(花押)
    (文部省告示第三百二十六號)

  • 昭和15年(1940年)遊就館の名宝日本刀展覧会でも津軽義孝氏所持。
  • 昭和23年(1948年)12月20日、辻博治氏に譲渡。

    太刀 金象嵌銘城和泉守所持
    正宗磨上本阿(花押) 一口
    旧所有者 東京都新宿区 津軽義孝
    新所有者 石川県河北郡 辻博治
    変更年月日 昭和二十三年十二月二十日
    (昭和24年 文部省告示第百七十四号)

  • 昭和26年(1951年)6月9日に新国宝指定。辻博治氏所持。

    刀 金象嵌銘 城和泉守所持 正宗磨上 本阿(花押)
    石川県河北郡七塚町字木津 辻博治
    (昭和26年文化財保護委員会告示第二号)

  • 昭和36年(1961年)の「正宗とその一門」、昭和43年(1968年)の「刀剣博物館開館記念 国宝日本刀特別展」でも辻博治氏所持。



 城氏(じょう し)

  • 城氏は越後の豪族。余五将軍平維茂の後裔を称し、維茂の子・繁茂(繁成/重衛)を祖とする。繁茂の子・太郎貞成(貞成)の時に、城介の家の長男の意で城太郎と称したという。
    平維茂─繁成─貞成─永基─城資国(城九郎)─┬城資長(検非違使、義仲追討)
          (城太郎)           ├城資職
                          ├城長茂
                          ├城資永───資盛
                          └坂額御前
    
  • のち庶流が越後古志郡の地名を取って玉虫を家号としたが、貞茂(城昌茂の祖父)の代に城氏を称したという。この城貞茂の代から長尾為景、長尾景虎(上杉謙信)に仕えた。

    貞茂(さだもち)──景茂(かげもち)──昌茂(まさもち)──信茂(のぶもち)

    寛政重脩諸家譜によれば、元亀3年(1572年)に武田家の城家の嫡流が断絶したために景茂が城を称しせしめたとする。

 城景茂

次郎左衛門
和泉守

  • 子の城景茂のときに謙信の勘気を蒙り、父子ともに会津で牢人となった後、武田信玄に仕えた。長篠の合戦において城貞茂は駿河深沢城番となっているが、戦後に死去している。
  • この武田家臣時代、城景茂は真田昌幸と親交があったとされ、慶長16年(1611年)に真田昌幸が九度山で死んだ際には真田信之に弔問の手紙を送っている。

    城景茂、真田信之に父昌幸の死を弔問す
    房州様(真田昌幸)御逝去之由、爲元へ其聞得候、不及是非次第ニ候、一度可懸御目与存、年月を送り候へ者、涙計に罷成候、御苦身被成候事一入いたはしく存候、心事雖盡帋上候、恐々謹言、
                    城和泉守(城景茂
     六月十六日
     真豆州様(真田信之
      人々御中

  • 寛政重脩諸家譜によれば、天正10年(1582年)に武田家が滅亡した後に徳川家康に仕え、天正11年(1583年)7月9日に越後古志郡の本領を宛行われ、父子(景茂・昌茂)連名の朱印状を賜ったという。
  • 天正15年(1587年)駿府にて死去。享年66。法名道逸。
  • 次男・助大夫重茂は玉虫氏を称す。

 城昌茂

織部、織部佐、和泉守
半俗庵

  • 子の城昌茂は鉄砲衆として武田勝頼の侍大将となり、天正8年(1580年)には信濃河北に領地を拝領している。※百貫文とされる。

    天正八年一二月二九日 武田勝頼、真下但馬に、信濃河北の内反町分の地を、城昌茂に、同稲付辻屋分の地を宛行ふ、

  • 天正10年(1582年)の武田氏滅亡後は父と共に徳川家康に仕え、天正12年(1584年)の小牧長久手の戦い後に武蔵忍熊谷の地で7千石を拝領する。慶長5年(1600年)の関ヶ原の際には、水野勝成らと共に大垣城への抑えとされた。戦後に鎧兜服などをたまう。
  • のち奏者番を勤め、大坂の役では池田利隆の軍監となっている。
  • 戦後に軍令違反の咎で改易された。近江石山寺に蟄居し、寛永3年(1626年)に赦免されたため江戸へ向かう途中に信濃において7月2日死去。享年76。法名宗仲。

    昌茂 織部、織部佐、和泉守。半俗庵、母は某氏
    武田信玄及び勝頼につかへてしばしば戦功あり、信濃国河北のうちにをいて百貫文の地を領す、天正十年父景茂と同じく東照宮(徳川家康)に仕えたてまつり、十二年長久手の役に供奉し、後武蔵国忍・熊谷にをいて采地七千石を賜ふ、慶長五年関原陣には、昌茂父子、西尾豊後守光教・水野六左衛門勝成・同宗十郎忠胤とともに、勝山の御陣営と大垣城の間に陣してこれを守る、中略、元和元年凱旋ののち、昌茂軍令を犯せしを咎られ、改易せられ、近江国石山寺に屏居し、寛永三年赦免ありて江戸に赴くのとき、七月二日信濃国にをいて死す、年七十六、法名宗仲、武蔵国熊谷東漸寺に葬る、妻は長尾是言義景が女


    信茂 甚太郎、織部佑、母は義景が女
    元和元年凱旋ののち、十二月二十七日御勘気を蒙り、後ゆるされて御書院番に復す、上下略
    (寛政重修諸家譜)

    この文中に出ている「軍令を犯せし」とは、大阪冬の陣での森忠政隊への静止命令を解かなかったことによる。これにより森隊は、2日後に発生した博労淵の戦いでも傍観したために家康の上使水野勝成から叱責を受ける。これに対して森忠政が軍監(城昌茂)の命令に従ったまでだと説明したため、城昌茂は解任され(水野勝成が後任)、戦後に改易となった。

 城信茂

  • 父・城昌茂と共に仕え、大坂の役後に改易されるがのち赦免され御書院番に復した。
  • 寛永5年(1628年)に下総香取郡で千石を拝領。寛永11年(1634年)には甲斐八代で千石を拝領し、都合二千石となる。
  • 寛永16年(1639年)64歳で死去。法名宗怒

 城朝茂

  • 寛永3年(1626年)に台徳院に拝謁。
  • 翌年に御書院番。寛永9年(1632年)より本城に勤仕。
  • 寛永10年(1633年)200石。
  • 寛永16年(1639年)遺跡を継ぐ。500石のうち、300石は弟・七之助高茂に分与、200石は収公。この弟・七之助高茂はのち玉虫氏を称す。
  • 承応元年(1652年)に普請奉行。
  • 延宝4年(1676年)致仕。貞享2年(1685年)死去、享年80。法名義徹。

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