坂田公時


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 坂田金時(さかたのきんとき)

頼光四天王の一人
幼名金太郎(きんたろう)
坂田金時

 伝承

  • 金時神社(静岡県駿東郡)に由緒が伝わる。
  • 彫物師十兵衛の娘、八重桐(やえぎり)が坂田蔵人の子供を身ごもり、天暦10年(956年)5月に誕生する。
  • まもなく父の坂田蔵人がなくなったため、金太郎は八重桐の故郷である足柄で育ったという。
  • 天延4年(976年)3月、足柄峠にさしかかった源頼光と出会い、名前を「坂田公時」と改め、家来となったという。

 坂田公時

  • 京にのぼって頼光四天王の一人となる。四天王には、他に渡辺綱、卜部季武、碓井貞光が名を連ねる。
  • 永祚2年(990年)3月、丹波国大江山(現在京都府福知山市)に住む酒呑童子を退治する。
  • 寛弘8年(1012年)12月15日、九州の賊を征伐するため築紫国へ向かう途中、作州路美作勝田壮(現在の岡山県勝央町)にて重い熱病にかかり、死去。享年55だったという。
  • しかし実際には人物についてほとんどわかっていない。

    酒田靱負公時も、坂田金時ともいつて同じく四天王の一人であるが、これも傳は詳かではない。荻生徂徠の南留別志には『坂田のきんときは、公節なり。物部の系圖にあり』とあるが、その系圖といふものも見るに由ない。又その出生地も明らかではなく、足柄山で生長したといふのも、前太平記に見えるのみで古書には少しの記載もない。試みに、この書によつて公時の生立ちを記して見よう。
     上総の太守源頼光が上洛しようとして、天延四年八月、足柄山に差しかった所が、前面の岨に赤雲の靉くのを見て偉人のあるを察し、綱をしてこれを捜らせて見ると、老嫗と一青年とがゐたので、綱はこれを伴つて頼光の前にでた。老嫗は頼光の問ひに應じて語るには、『天地の間に孕みて天の命を稟く、(略)是れ我が子なり。しかも父無し。嘗てこの山中に住むこと幾年と云ふ事を知らず。一日この巓に出でて寝たりしに、夢中に赤龍來つて妾を通ず。其の時雷鳴夥くして驚覺めぬ。果して此の子を孕めり。生れてより廿一年を歴たり』と。時に綱はこれを聞いて、『公に事ふる、時を得たり』と祝したので、頼光は大いに喜んで、仍ち姓名を賜ひて酒田公時と云ふ、とある。もちろん漢の高祖の故事に思ひ寄つて作つたもので、もとより信ずるに足らぬが、後世の公時の傳をいふものは、いづれもこれを基として公時に山姥を配合したり、獣類を集めて遊ぶ場面を作出したりしてゐる。馬琴の阿()殿兵衛實々記にも、玉置山に入つて赤氣を見たことを記して、
      蓬なる谷蔭より、一道の赤氣粲然と立のぼり、
      末は五色に天引くを見て候ひし。
      かの山には老嫗など云ふものゝ蟄り居るにやあらんずらん。
      昔時源頼光朝臣足柄山を超給ふとて不意勇士を得て
      坂田公時と召されたる故事をさへ、思ひあはするになん。
    など記してゐる。なほ前太平記によると、のち頼光の沒するに及んで公時は飄然主家を出て、この山中で何所ともなく姿を消したといふ。これは義経が鷲尾經春を得た話に基づいたものであらう。但し、前太平記より遥か以前に成つた和漢三才圖會にも、伊豆國の部に卽に『坂田明神、在竹下、祭神坂田公時之霊』と見えてゐるから、公時が足柄に結付けられたのも亦、さほど近い頃でないと思はれる。前太平記の説も或は三才圖會あたりより來たのであらう。




 下毛野公時

  • 藤原道長の「御堂関白記」など当時の史料によると、下毛野氏(しもつけぬうじ)に属する下毛野公時という優秀な随身(近衛兵)が道長に仕えていた。近衛府官人として第一の者であったという。

    廿四日、己丑、從師許送書、開見書云相撲使公時死去由、件男随身也、只今兩府者第一者也、日來依此云々憐者甚多、

    近衛府の下級官人であった下毛野公友の子で、長保2年(1000年)生まれ。寛弘6年(1009年)に近衛舎人、18歳で死んだ時には近衛番長となっていた。寛仁元年(1016年)、相撲使として訪れた筑紫で死去。
  • この公時が、100年後の「今昔物語集」では、すでに頼光の家来として「公時」という名の郎党が登場している。
  • この後、坂田公時(金太郎)のイメージが増幅していったとされる。


 坂田金平(金平浄瑠璃)

  • 江戸時代の前期、「金平浄瑠璃」が特に江戸の町人に流行した。
  • 薩摩浄雲の弟子である江戸和泉太夫(のちの桜井丹波少掾)が明暦頃に始めたもので、坂田金平の武勇譚を主とし公平浄瑠璃、あるいは金平節(公平節)とも呼ばれた。坂田金平の豪快で正義漢溢れる性格や渡辺竹綱の智謀の数々などが当時の庶民の関心を呼び、万治・寛文頃から約40年ほどの間、江戸の浄瑠璃界を風靡した。このことから、強いもののたとえとして金平を称することが流行ったという。
    大和守日記や榊原文書(高田藩)など大名の日記類にも登場し、上演の記録がある。
  • 「金平浄瑠璃」は源頼光と四天王の次世代の話であり、頼光の弟である源頼義と、四天王の息子とされる坂田金平・渡辺竹綱・碓氷定景・卜部季春の「子四天王」が活躍する浄瑠璃であった。特に坂田金平の人気が高かったためにこの名で呼ばれたのだという。
    坂田公時はモデルとなる人物が有るとされるが、息子とされる坂田金平は人形浄瑠璃に登場する架空の人物である。
  • 侫人の讒言や反逆者の襲撃によって京都を追われた源頼義が、金平ら子四天王の活躍によって侫人や反逆者を倒し、都の平和を回復させるという筋書きである。
    源頼義は、頼光の弟である河内源氏の祖とされる源頼信の嫡男(河内源氏二代目棟梁)。徳川家が新田氏(世良田あるいは得川義季)の末を称しており、その新田氏の祖先である源義国、さらに源義家、源頼義と遡れる河内源氏の物語を幕府も容認したのだという。
          源俊娘
           ├────源頼光(摂津源氏)
     経基王──源満仲
           ├───┬源頼親(大和源氏)                ┌額戸経義
    藤原致忠─┬致忠娘  │                         ├世良田義季(得川義季)
         ├藤原保昌 │(河内源氏)                   ├山名義範
         └藤原保輔 └源頼信──源頼義──源義家─┬源義親       ├里見義俊
                              ├源義国─┬新田義重─┴新田義兼(新田氏)
                              └源義忠 └足利義康─┬足利義清(細川氏祖)
                                         ├足利義長
                                         └足利義兼(畠山・吉良・今川・斯波・一色・足利氏祖)
    
    
    

 関連

  • 古くから金太郎としてのイメージが流布され、様々なものに名前が残る。
  • 「金時豆(赤インゲンマメ)の名前の由来であり、息子とされる坂田金平は「きんぴらゴボウ」の名に残る。

    金時小豆(きんときあずき)
    小豆の一種を云ふ、其粒赤くして太し、阪田金時の幼繪姿に似たりとして名づけしなり

    金平牛蒡(きんぴらごばう)
    堅く煮し牛蒡を云ふ、阪田金時の子に金平といへる强力の者ありしと浄瑠璃に作りて大に流行せし際此名起る


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