へし切長谷部
へし切長谷部(へしきりはせべ)
刀
金象嵌銘 長谷部国重本阿(花押)/黒田筑前守
名物 へし切
刃長64.8cm、反り0.9cm、元幅3.0cm、先幅2.5cm、鋒の長さ5.8cm
国宝
福岡市博物館所蔵
- 享保名物帳所載
へし切長谷部 長二尺一寸四分 五百貫代付 松平筑前守殿
信長公所持、御茶道観内と申者御敵對仕候事有之、御手討に成さる、御膳棚の下へ隠れけるを、へし切に成され候故名付大切物なり、羽柴筑前守と奉申時秀吉公より被進黒田長政殿拝領国重なり
- 刃長二尺一寸四分。
- 本造りで表裏に棒樋をかき通し、大切先となる。鋩子は乱れこんで尖る。
- 中心大磨上、目釘孔4個、うち3個は埋める。
- 本阿弥光徳が長谷部国重の作と極めており、指表に「黒田筑前守」、指裏に「長谷部国重本阿(花押)」と金象嵌が入る。
- 金霰鮫青漆打刀拵は、同じ黒田家所蔵の「安宅切」の拵えに似せて作られたもので、鐔は銘「信家」、鉄地木爪形斧造で表に「南無妙法蓮華経」裏に瓢箪の毛彫りがある。目貫は桐三双、赤銅高彫色絵。縁は赤銅製波文で「一乗斉毛利光則」の作者銘がある。
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由来
- 織田信長の愛刀。
- ある時、観内(かんない)という茶坊主が失敗を犯した。信長は手打ちにしようと追いかけたが、観内は台所の御膳棚の下に隠れたという。棚の下では刀を振り上げて切ることができず、仕方なく棚の下に刀を差し入れあてたところ、たいして力を入れることもなく胴体ごと「
圧 し切って」しまったという。台所へ逃膳棚之下にかゝミ候を、振上切給ふ事難成、さし入れてへしつけ給ふに、手に覚えす切落し給ふ。是よりへし切と称らる。
- 恐ろしいほどの切れ味の名刀。
来歴
- 名物帳では信長より秀吉に贈られ、後に黒田長政に贈られたとする。
羽柴筑前守と奉申時秀吉公より被進黒田長政殿拝領国重なり
秀吉が豊臣姓を名乗ったのは天正13年(1585年)とされている。
- しかし別の説では信長から(小寺家所属時代の)如水(黒田官兵衛孝高)へ直接下賜したともいう。
信長から如水説
- 「黒田御家御重宝故実 刀剣の部」によると、信長より如水へと伝わっている。
圧切御刀 弐尺壱寸四分 長谷部国重一名半阿弥 信長公御時クワンナイと云茶道坊主を手打にし給ふ、台所へ逃行、膳棚の下ニかゝミけるを、振上切給ふ事成難刀を指入てへし入給ふに、手に不覚切落し給ふ、是より圧切と名付らる、信長公より如水へ被遣と云々、本阿弥の名物記にも長政公御拝之(ママ)由也
- 「黒田家譜」では太刀一腰を賜ったとするが号は書いていない。
孝高元來小寺の家臣にあらずといへども、旗下に屬せしかば、其職を勤めんとなり。小寺大に悦で、則孝高に小寺の姓を授け、使者として岐阜へ遣はさる。(略)戰功に依て、汝にも一廉恩賞を與ふべし。汝は急ぎ本國に下り、内々其用意をなすべしと仰せられ、御太刀一腰賜りて御暇を下され、姫路に歸し給ふ。
秀吉から長政説
- 名物帳や「名物三作(本阿弥正三郎弘化2年写)」でも、秀吉から黒田長政(如水の嫡男)が拝領したことになっている。
松平筑前守殿 ヘシ切長谷部長サ弐尺壱寸四分 無代(ママ) 五百貫代付 信長公御所持 御茶道観内ト申者御敵対仕事 有之ニヨリ御手討ニ被成御膳棚の下へ隠レケルヲヘシ切ニ被成候故名付大切物也 羽柴筑前守様ト奉申時秀吉公より被進黒田長政殿拝領重宝也
- しかしこれにはつぎのような後世の附箋がついている。
ヘシ切 国重ハ小寺政職ノ使トシテ孝高公信長ニ面会ノ時中国征伐ノ献策ヲ賞シ与ヘラレタルモノニテ秀吉ヨリ長政公拝領ニハアラス(本阿弥家ノ誤伝ナリ)
(黒田記念室説明書き)黒田記念室:国宝刀 名物「へし切長谷部」
伝来のまとめ
- 要するに「へし切り」は、黒田如水が小寺氏の被官となり「小寺官兵衛」と名乗っていた頃、播磨に進出してきた秀吉に伴われて安土の信長に面会し、毛利討伐の献策を行った際に直接信長から拝領したものであり、秀吉から長政に伝わったというのは本阿弥家の誤伝であるという。
黒田如水が信長に拝謁したのは天正3年(1575年)7月。信長側の「信長公記」や天正8年(1580年)の「天王寺屋会記」には記録がないため、遅くともこれまでに拝領ということになる。
黒田長政が従四位下・筑前守に叙任されたのは慶長8年(1603年)、黒田如水は慶長9年(1604年)に死んでいる。黒田家伝来通り如水拝領であれば、恐らく「へし切り」も如水死後に継承したと思われる。いっぽう本阿弥光徳が死んだのは元和5年(1619年)であり、光徳極めと金象嵌はこの間ということになる。
- 享保の頃、幕府の調べに対して次のような調書を提出している。
圧切 長谷部 弐尺壱寸四分
信長公或時クハンナイと言茶道坊主を手打にし給ふ。台所へ逃膳棚之下にかゝミ候を、振上切給ふ事難成、さし入れてへしつけ給ふに、手に覚えす切落し給ふ。是よりへし切と称らる。信長公より黒田勘解由孝高へ被下、于今持伝候事。
(黒田新続家譜)
- 薩摩藩8代島津重豪の十三男の桃次郎は、のち福岡藩10代藩主である黒田斉清の娘、純姫と婚姻し、養嗣子となって筑前福岡藩11代藩主黒田長溥(斉溥)となった。
- へし切りの記録には「中将様御指」と書かれたものがあり、左近衛権中将であった黒田長溥が普段指しに使っていたことがわかる。
この長溥にも嗣子が生まれず、伊勢津藩主藤堂高猷の三男建若を養嗣子として迎えている。これが筑前福岡藩12代藩主の黒田長知であり、長知の子が、福岡藩最後の藩主であり維新後は侯爵となった黒田長成である。
- 昭和11年(1936年)9月18日に旧国宝指定。
刀 金象嵌銘 長谷部國重本阿(花押)
黒田筑前守
東京府東京市赤坂區福吉町 侯爵黒田長成
(昭和11年文部省告示三百二十六號)
- 昭和28年(1953年)3月31日に国宝指定、黒田長礼氏所蔵。
- 黒田家14代目当主黒田長礼所蔵。昭和53年(1978年)に氏が亡くなった後、茂子夫人(閑院宮載仁親王の第二王女)は夫の遺志に基づき黒田家に伝わる宝物、美術品を福岡市に寄贈している。
- 現在は福岡市博物館所蔵
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