吉見左文字


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吉見左文字(よしみさもんじ)  


銘 左文字 吉見正頼研上之/永禄九年八月吉日
名物 吉見左文字
2尺1寸9分(66.4cm)、反り6分
徳川美術館所蔵

  • 享保名物帳所載

    吉見左文字 磨上長二尺二寸 尾張殿
    吉見三河守源正頼所持、家康公へ上る、尾張殿へ御伝へ、表に永禄九年八月、裏に左文字吉見正頼磨上之、正頼は大内殿の幕下周防岩国石見の津和野を領す、範頼の孫也

  • 真の棟、本造り、鋩子は乱れこんで尖る。物打ちに1ヶ所切り込みの痕がある。
Table of Contents

由来  

  • 吉見正頼所持にちなむ。

来歴  

吉見正頼  

  • 吉見正頼は戦国時代から安土桃山時代にかけての周防石見の武将。
  • 弘治3年(1557年)に周防大内氏が滅ぶと、吉見正頼は永禄9年(1566年)には毛利家の家臣となった。この頃に磨上させ、銘を入れさせている。
    銘入れは毛利元就生存中、元亀2年(1571年)に元就が亡くなっており、天正16年(1588年)に吉見正頼が亡くなっている。輝元への献上は、その晩年ごろではないかと思われる。

毛利輝元→家康  

  • のち毛利輝元に伝わり、その後この左文字が高名であることを知っていた家康が召し上げている。

尾張徳川家  

  • 家康没後、形見分けとして尾張家初代義直に伝わる。

    神君より被進ト 元和古帳ニ有

  • 元禄12年(1699年)の御腰物帳にも載る。

    元禄十二年卯十二月
    一、御指料御刀 吉見左文字御拵有

  • 尾張藩主二代光友のころから藩主三腰の第一に上げられ、出陣・登城・紅葉山参詣の際にこれを佩用することになっている。そのため拵えも7種類ほど用意されていた。

    慶安四年卯三月 御腰物帳
    一 吉見左文字 御拵有 御鞘弐本

  • 寛政6年(1794年)、尾張竹屋8代目の九右衛門家義に研ぎ直しを命じている。
  • 文政頃の御腰物元帳

    御大切道具
    一 名物 吉見左文字御刀 揚銘有長弐尺壱寸九分
    表ニ吉見正頼上之(ママ
    裏ニ永禄九年八月吉日


吉見正頼(よしみ まさより)  

戦国時代から安土桃山時代の武将
石見国鹿足郡津和野の三本松城を本拠とした国人・吉見氏の当主
大内氏、毛利氏の家臣
法号 周鷹

生まれ  

  • 石見国津和野領主である吉見氏の第11代当主として吉見頼興の5男として生まれる。
    石見吉見氏は、源頼朝の弟・範頼を遠祖とする清和源氏の支流・吉見氏の傍流にあたる。

大内家臣  

  • 津和野の僧侶であったが、天文9年(1540年)に兄が不慮の死を遂げたため還俗して家督を継いだ。正室は、兄・隆頼の正室であった大宮姫(大内義隆の姉)。
  • 天文20年(1551年)に大内義隆が重臣の陶隆房の謀反によって討たれると、同じ大内家臣でありながら応仁の乱以来の仇敵であった吉見氏は、反陶隆房の急先鋒として挙兵する。
  • 天文23年(1554年)には大内軍による総攻撃を受け、て三本松城に籠城するが、最終的には子・広頼を人質に出し講和する(三本松城の戦い)。
  • 弘治3年(1557年)毛利元就の防長経略に際して、毛利軍と同調して山口に侵攻、長門国阿武郡にある渡川城から大内軍(野上房忠の軍勢)を排除して山口北部の宮野口へ迫り、山口を陥落させた。

毛利家臣  

  • 同年、大内氏が滅ぶと毛利家の家臣となり、清廉な性格を厚く信頼され重用される。
  • 元亀2年(1571年)に元就が死去した後は、後を継いだ嫡孫毛利輝元の補佐を吉川元春から依頼されている。
  • 天正9年(1581年)に隠居して家督を子の吉見広頼に譲っている。
  • 吉見正頼は天正16年(1588年)没。享年76。

系譜  

               内藤隆春娘・河原殿 ┌吉見広長
         大内義興娘・大宮姫   ├───┴吉見元頼
吉見成頼─┬信頼       ├───吉見広頼━━━吉見政春(毛利就頼)
     └頼興──隆頼──吉見正頼        (大野毛利家)
         (次男)(五男)
  • 【広頼嫡男・吉見元頼】
    • 吉見広頼の嫡男吉見元頼は、吉川元春の娘(吉川広家の妹)を正室としている。
    • 文禄の役では、父・広頼に代わり、元頼が出陣する。文禄3年(1594年)5月に帰国するが、長陣で体を壊していた。養生のために三本松城で猿楽能の興行が催されたが、半ばで病状が悪化し、6月4日に死去した。享年20。
  • 【広頼次男・吉見広長】
    • 吉見氏の家督は弟・吉見広行(後の広長)が継いだ。慶長の役では、広行(後の広長)が渡っている。
    • しかし広行(後の広長)は、独立大名化や他大名への仕官を図って慶長9年(1604年)から元和3年(1617年)まで毛利氏を出奔しており、父・広頼が吉見家の政務に復帰している。
  • 【関ヶ原後】
    • その後、関ヶ原の敗戦で毛利家が所領を大減知されると、吉見氏も津和野城を召し上げられ、長州阿武郡に移された。
    • 広頼は、毛利輝元の命を受け、慶長17年(1612年)12月に吉川広家の次男・彦次郎を自らの五女の婿養子に迎えて「吉見政春」と名乗らせ、跡を継がせている。吉見広頼は翌18年(1613年)に死去。

    • 吉見広長は広頼の死後に帰参し家督を継いだが、元和4年(1618年)に讒言により毛利輝元に追討を受けて自刃、石見吉見氏は断絶した。
    • その後吉見政春は、「毛利就頼」と改名、大野毛利家を興し、子孫は長州藩一門家老として幕末まで存続した。


関連項目  

  • 鵜咋」:吉見家伝来。

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