古田山城来国光
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古田山城来国光(ふるたやましろらいくにみつ)
脇差
古田重嗣所用
由来
- 号は茶人で大名であった古田織部(古田重然)の子で古田重嗣所持にちなむという。
もうひとつの「古田山」の由来は不明。御分物帳では「古田山城来国光」と記載されており、本来は山城鍛冶の来国光という意味であったのが、「城」の字が落ちたものとも考えられる。
また古田氏の所領にある徳林寺は、元は勅願寺の寂乗山徳林寺といった。それを古田織部が復興し、山号を「古田山」と改めたという。奥磯栄麓著「美濃焼」。古田山という号を用いていた可能性がある。
来歴
- 古田重嗣は茶人大名として知られる古田織部の子として生まれる。
- 慶長20年(1615年)の大坂夏の陣のおり、古田織部の茶頭である木村宗喜が豊臣氏に内通して京への放火を企んだとされる疑いで京都所司代の板倉勝重に捕らえられてしまう。
- 古田織部も、冬の陣の頃から豊臣氏と内通しており徳川方の軍議の秘密を大坂城内へ矢文で知らせたなどの嫌疑をかけられ、大坂落城後の6月11日に切腹を命じられた。織部はこれに対し、一言も釈明せずに自害したといわれる。
- 本刀「来国光」を所持していたという長子の古田重広も時を同じくして切腹している。
尾張家
- 家康亡き後、「古田山城来国光」は駿河御分物として尾張徳川家に分与される。
- 拵え付きで、金二十五両の折紙がついた。
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