博多藤四郎
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博多藤四郎(はかたとうしろう)
- 享保名物帳:名物追加
博多藤四郎 長八寸一分半 代金二百枚 小笠原左近将監殿
黒田忠之小倉表海上にて、古右近殿へ進せらる、博多は黒田殿領分にて、博多より出る道具故、右の通り名付るなり- 故右近殿とは小笠原忠真のこと。
- 平造り、筍反り、行の棟。差表に護摩箸、裏に腰樋。鋩子小丸、少し返る。中心うぶ、目釘孔1個。吉光二字銘。
由来
- 黒田忠之が小倉表の海上で小笠原忠真に贈ったためという。
黒田忠之は長政の子で筑前福岡藩第2代藩主。小笠原忠真は豊前小倉藩初代藩主。寛永9年(1632年)熊本52万石の加藤忠広が改易された後に細川忠利が熊本54万石で移封する。小笠原家は細川家のあとを継ぐ形で豊前小倉15万石で転封する。
来歴
- 正保4年(1647年)黒田忠之の嫡嗣光之は、正室に小笠原忠真の長女市松姫(宝光院)を迎えている。この婚礼の際に小笠原忠真は光之に対し婿引出として「鄙田青江」を贈っており、恐らくはこの時に黒田忠之が「博多藤四郎」を贈ったものと思われる。
- 贈られた小笠原忠真は、この「博多藤四郎」と郷義弘を、惜しげもなく陣刀拵えとした。
- 本阿弥光室が、郷義弘は七千貫、藤四郎は五千貫もする高価な刀であり陣刀になさるのは珍しいことだといったが、忠真は「亡き父も兄も大坂夏の陣で討ち死にしており、武士は最期が大切であるため名刀でも陣刀にするのだ」といったという。
總て名将の御陣刀は皆名物也、小笠原右近殿古例をいへるハ、陣刀には七千貫の義弘、指添は五千貫のはかた藤四郎也、如此名物の陣刀は、珍ら敷御ことと申けれは、武士の一大事は最期也、親と兄は打死しける、我數ヶ所深手を負けれとも、仕合惡し敷なからへける故、自然のこと有はと、朝な胸にせまり有なり、餘の人々ハ大きに違たる身なれば、陣刀に至る迄心得有、御心安き故おかしき御物語被成と被仰ける
(本阿弥行状記)
- 昭和11年(1936年)の「国宝刀剣図譜」では子の小笠原忠春伯爵所持。
この忠春の妹が伯爵伊達興宗夫人の鞠子で、昭和22年(1947年)に興宗が亡くなると伊達家の所有する家宝や土地、山林を勝手に売却するなど横暴な振る舞いをして、親族と争いごとに発展したとされ、世間で新伊達騒動と言われ注目された。
- 昭和19年(1944年)に小笠原忠統へと相続されている。
短刀 銘吉光 一口
昭和六年文部省告示第三百三十二号
旧所有者 小笠原忠春
新所有者 小笠原忠統
変更年月日 昭和十九年七月十七日
(昭和22年 文部省告示第八十三号)
以前は、上記移動履歴を「秋田藤四郎」のものとして誤記載しておりました。ご指摘を受け修正しました。ありがとうございました。
- 昭和20年(1945年)7月30日に短刀吉光の譲渡が行なわれている。これが恐らく博多藤四郎であると思われる。
短刀 銘吉光
昭和六年文部省告示第三百三十二号
旧所有者 小笠原忠統
新所有者 岡野光弘
変更年月日 昭和二十年七月三十日
(昭和22年 文部省告示第五十五号)
- 昭和33年(1958年)の「備山愛刀図譜」には載っていないため、それまでに手放したものと思われる。
- その後、渋谷区代々木の刀剣博物館所蔵。
現在の所蔵先は不明。
文化遺産DBのページでは2015年7月まで刀剣博物館所蔵という記述が確認できたが、その後所有者が変わった模様で、現在国指定文化財等DBのページでは所在都道府県が「東京都」とのみ書かれている。
いっぽう福岡県庁の福岡県指定文化財目録のページでは2015年5月1日現在の情報として、福岡市の個人蔵となっている。いずれが正しいのかは不明となっていた。
- 平成28年(2016年)、8300万円で文化庁に買い上げられ、現在は国(文化庁)の所蔵、東京国立博物館保管となっている。
工芸品 重要文化財 昭和6年12月14日 工芸品
第1543号 短刀〈銘吉光(博多藤四郎)/〉 1口 83,000,000- 平成28年度文化庁購入文化財一覧 | 文化庁
- 「新たな国民のたから」展の開催について|文化庁
出展文化財等一覧
32 工芸品 重要文化財 短刀 銘吉光(博多藤四郎) 一口
情報提供をいただきました。ありがとうございました。
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