千代金丸
千代金丸(ちよがねまる)
金装宝剣拵
刀身無銘(号 千代金丸)
刃長71.3cm
国宝
那覇市歴史博物館所蔵
- 琉球国王家の尚家に伝来した刀剣。
- 片手打ちの柄など、日本刀の形式とは異なる独特な造りである。
- 鞘は金版で覆われ、琉球で製作されたと思われる柄頭は菊文と「大世」の2文字が彫られている。
銘文の「大世」は、尚泰久王の神号「大世主(おおよのぬし)」を指すと昔より指摘がある。
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伝来
攀安知
- 琉球の歴史書「球陽」によれば1416年に中山王との戦いに負けた山北王がこの刀で自害したとされる。
その頃本土の商船鉄塊を載せて与那原に来り貿易をなす。即ち巴志帯ぶる所の剣を見て瀕りに之を求めんことを欲し、遂に満載せし鉄塊を以て之を購う。巴志多くの鉄を得、兵器を造らず、悉く農民に分与して耕具を造らしむ、百姓感激せざるものなく、為に産業俄に興り民力充実するに至る。云々
攀安知(はんあんち、はんあち)は、山北国・帕尼芝王統の最後の王。尚巴志が中山を征服したのち山北に伸張してくるとこれと戦うが、臣下の裏切りもあり、居城の今帰仁城にて自刃した。
- また「千代金丸宝刀ノ由来」によれば、
尚巴志 により攻め滅ぼされた山北王攀安知 の所持した宝刀であったとする。臣下の本部平原の裏切りもあって城を守りきれなかったことに怒り、守護の霊石を切りつけて更にこの刀で自害しようとしたが、主の命を守る霊力が込められた刀であったため死にきれず、重間(志慶間 )川に投げ捨ててから命を絶った。山北王攀安知千代金丸ト名■■累代相傳ノ寶刀アリ應永二十三年中山ト戦ヒ終ニ敗北シテ二ノ丸
ヘ引上ケ前代ヨリ城ノ守護神トシテ尊崇スル盤石ノ前ニ至リ予今■死ヲ決ス汝豈ニ獨リ生ルヤト云テ自ラ腹ヲ切リ其ノ及ス刀ヲ以テ盤石ヲ十文字ニ切リ其ノ刀ヲ重間河ニ投シ而シテ亡フ
尚巴志
- これを
伊平屋 の住人が拾い上げて中山王に献上したという。
山北討伐当時の中山王は父の尚思紹。1421年に薨去すると、尚巴志は翌年に中山王に即位する。
- 尚巴志は1429年に南山王、他魯毎を滅ぼし、琉球王国最初の統一王朝を成立させた。
尚氏代々
- 第一尚氏7代尚徳王の時代、1469年に金丸(後の尚円王)の即位により王朝は滅亡、第二尚氏に引き継がれる。「千代金丸」も第二尚氏へと伝わった。
- 明治23年(1890年)に故小松宮殿下(小松宮彰仁親王)が琉球を巡視した際に尚家に立ち寄り拝見。「美事なる一振だ」と褒めたという。
明治二十三年、故小松宮殿下が琉球を巡視せられたことがあつた。尚家へお立ち寄りの時、この名刀を御覧ぜられた。名劍にまつはる歴史と傳説、それを言上すると、殿下は「美事なる一振だ」と、刀を手にせられながら、六百年前の戰ひの上に、はるかな想ひを通はせられた。御歸還後も、刀劍の話が出るたび「千代金丸」の話を遊ばすのを常とせられたといふ。
- 明治42年(1909年)頃、お手入れが行われている。この時に立ち会ったのは、先代の尚典侯爵夫妻、今村長賀、関保之助のほか、研師の井上行造、杉本次郎、鞘師の小堀正治のみであったという。
千代金丸 一口 作者不明 拵への年代足利時代に属す
大切羽二枚完備せるは、他に類なき珍品なり、柄は短くして、騎兵刀の様式を見へ、頭槌形に成り能く握るに適す。
柄糸の巻方古式にして頗る珍重すべし、別に柄袋を調製して覆ひ置くべきは勿論、取扱すべて鄭重にして糸を損せざるやう心得肝要なり頭菊紋の毛彫は、想ふに琉球特有の作ならん、京都の作とは思はれず、刻する所の大世の二字、尚泰久王世代所鋳大世通寶の銘文と字格頗る相似たり、蓋し大世は、同王神号大世主にとるか、鍔猪の目の金の中覆輪最珍也、鞘の熨斗付金に、繼目あるは帯取の迹なり、刀身の地金細かにして、焼刄亦同斷、要之、傳家の寶刀たるのみに非ず、以て天下の至寶とすべし。
刀身が二尺三寸六分、刄文亂れ刄で、裏と表に、五本の腰樋がある。中心が三寸六分七厘で重さが九十六匁、目貫は金唐花で、目釘まで金無垢である。柄頭は頭槌形で菊紋毛彫、こゝに、折紙で不思議がられてゐる、問題の「大世」、この二字が彫まれてゐる。
「大世通寶」は、琉球王国において発行された銭貨の一つ。尚泰久王の時代に永楽通宝の『永楽』を『大世』と鑲置(じょうち、文字のところに別の文字を嵌め込むこと)して発行された。そのため大世と通寶とでは字の形がまるで違う。この貨幣の「大世」と、本刀の銘文の「大世」の字体が似ているという指摘がされている。
- 昭和4年(1929年)3月の日本名宝展覧会では尚裕侯爵所持。
【第二尚氏】 尚典──尚昌──尚裕
- 平成14年(2002年)に重要文化財に指定。
- その後、平成18年(2006年)には千代金丸を含む琉球国王尚家に伝来した三振りの宝剣を含む計1,251点の文化財が国宝に指定された。(「琉球国王尚家関係資料」)
伝承
- 中山世鑑
去る程に山北王某を招いてニの丸へ引下り神代より城守護のイベとて崇め奉りし盤石あり其の前にて宣いけるは、今はイベも神も諸共に冥土の旅に赴かんとて腹搔き切り、反す太刀にて盤石イベを切り破り後様へ五町余りの重間河へぞ投げ入れ給う。
「イベ(イビ)」とは、聖地である御嶽の中心にある聖石のことを指すとされる。
- 琉球国由来記
去る程に山北王、今は是までぞ。今一度、最後の会戦して、心よく自害をもせんとて、赤地の錦の直垂に、火威の鎧を着、龍頭の甲の緒をしめ、千代金丸とて、重代相伝の太刀をはき、三尺五寸の小長刀を腋(ワキ)に挟み、花やかに鎧ふたる、兄弟一族、只十七騎、三千余騎の真中に懸入り、面も振ず、火を散してぞ、もみ合ける。
去程に、山北王、其の兵を招て、サノミ罪を作りても、何かせん、人手に懸んと、末代の耻辱ぞ
かしとて、二の丸へ引上り、神代より、城守護の、イベとて、崇奉りし、盤石あり。其の前にして、宣けるは、今は、イベも、神も諸共に、冥途の旅に赴んとて、腹掻切て、反す太刀にて、盤石のイベを切り破り、後様へ、五町余りの、重間河(志慶真川のこと)へぞ、投入給。七騎の者も、思々に自害して、主の尸を、枕にしてぞ、臥せたりける。
異説
重金丸(じゅうきんまる)
- 千代金丸は別名「重金丸」とも呼ばれる。
- 山北王舶尼芝が日本から入手したものという。応永(1394)年間に尚巴志と戦って敗れ、護剣渓に投げ込んだ。
- 文明(1469)ごろに親泊村の川から夜な夜な白気が立ち昇るため、恵平屋島の男が川底を探ると太刀一振りを発見したという。
- 尚真王に献上したところ、山北王愛蔵の重金丸に相違ないということになった。
「千代」が琉球方言訛りで「チュ」となり、それに「重」の字があてられたともいう。つまり「重金丸」は「千代金丸」ということになる。
手金丸(てがねまる)
- 千代金丸の鍔には「てかねまる」と刻まれている。
- また沖縄歌謡「おもろさうし」に「つくしじゃら」という部がある。
一 きこゑきみがなし(聞こえ君加那志)
とよむきみがなし(鳴響む君加那志)
これどだにの まてだやれ(これぞ本当の真テダだ)
又 きこへあんじおそいや(聞こえ按司襲い[王]は)
とよむあぢおそいや(鳴響む按司襲い[王]は)
又 つくしぢやら はきよわちへ(筑紫だら[長脇差し]を佩きたまいて)
てがねまる さしよわちへ(手金丸を差したまいて)
又 たまあしぢや ふみよわちへ(玉の足駄を履きたまいて)
- この「つくしぢやら」の異名が手金丸であり、「ぢやら」は長脇差を示しているという。
「つくしぢやら」に付けられた原注に「てがねまる御腰物異名也」とある。十七の六三にも「宝剣手金丸の異名なり」とある。(略)「つくしぢやら」の「ぢやら」は、長い脇差を意味する「だら」から出たもので、つくしのしのイ母音によって「だら」の「だ」が影響(口蓋化)されて「ぢゃ」(=ジャ)になったものである。
(『おもろさうし』にあらわれた異国と異域 - 池宮正治)
- つまり、この「おもろさうし」に従えば、現在「千代金丸」と呼ばれている刃長71.3cmの刀こそ「てがねまる」であり、現在「治金丸」と呼ばれている刃長53.8cmの刀が元来の千代金丸であったのだが、長い年月の間に入れ替わってしまった可能性があるという。
- これが事実であれば、現在「千代金丸」と呼ばれている刃長71.3cmの刀は筑紫の刀工が作刀した長脇差ということになるが、詳細は不明。
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