十連針
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十連針(じゅうれんばり)
太刀
刃長三尺五寸
由来
- 三寸五分の馬針を10本連ねた長さに等しいため。
馬を長時間走らせた時に脚部がうっ血状態になる。この際に、馬針を馬の脚に刺し血を抜くことで疲労を取るために用いられる。
黄糸ノ腹巻甲ノ緒ヲシメ、三尺五寸有ケル十連針ト云太刀ヲ横エ月毛ノ馬ノ太タクマシキニ乗申様打破御通候
他の佩刀
- 小牧長久手の戦いで死んだ森長可の当日の刀は次のように記されている。
于時天正十二甲申年四月九日、長可君御世壽二十七にして流矢ニ中り死給ふ、此時の御刀長光二尺三寸、御脇差了戒一尺三寸板作り、御印は大久保七郎右衛門與力本多八蔵御両刀ヲ添て取候也本多の末流紀州頼宣卿に居ルと云、此時の御刀長光、本多八蔵家に傳ふと云(略)承応年中、本多能登守忠義より原十兵衛一春へ御尋ニ付、書付差上ル由也
(森家先代実録)
- つまり森長可は、当日二尺三寸の長光、および一尺三寸の了戒を指していたといい、それが紀州藩の本多八蔵家に伝わるという。
「本多能登守忠義」とは本多忠政の三男で、平八郎忠勝の孫に当たる人物。「原十兵衛一春」は森家家臣であり、美作国津山藩の時代には寺社奉行となり広山八幡宮などを造営している。
- この刀を巡るエピソードが残る。
本多八蔵
- この「大久保七郎右衛門」とは大久保忠世であり、「本多八蔵」はその与力であった。
- 小牧・長久手の戦いにおいて、馬上で銃撃を受け転げ落ちた森長可は、左右を家臣に抱えられ戦場を逃れようとするが、そこに本多八蔵が通りかかり、兜首であることを確認した八蔵が襲いかかると森長可の家臣は森長可を打ち捨て逃げてしまう。
- 八蔵がその武将を確認すると、眉間を銃撃されておりすでに死亡していた。八蔵は森長可を見たことがなかったため顔を見ても誰なのか分からず、銃撃された首を持って行っても恩賞にはありつけないため、鼻を削いだ上で太刀と脇差を奪いその場を離れてしまう。
- その後、たまたま戦場に来ていた清洲の町人銀屋が八蔵の持っていた刀を見て、これは私が森長可様にお売りした物であるといったため、八蔵は慌てて元の場所に戻るがすでに森長可の死体はなかった。
- 八蔵は諦めきれず付近にあった首を抱えると、そのまま本陣に向かい、「森長可を討ち取ったり」と叫んでしまう。しかし、森長可の顔を知るものが多数いたため、その首が森長可のものではないことはすぐに露見してしまい八蔵の手柄はなかったことになってしまった。
- 大きな恥辱を晒すことになった八蔵は、続いて起こった蟹江城の戦いで討ち死にする。
- 森家先代実録によると、この八蔵の末裔が紀州徳川家に仕えており、両刀もそこに伝わるという。
ここでは銀屋という町人が森長可の刀であると指摘している。
異説
- この八蔵のエピソードについては異説がある。それによれば、銃撃された森長可の首は、戦いの後も見つからず徳川陣中でもしつこく詮索が行われた。そのうち、木屋常貞という上方の研ぎ屋(木屋は当時の高名な刀研師)に詮議が及び、呼び出して話を聞いてみると、森家にも出入りしていたために御道具(刀)にも見覚えがございますという。
- 分捕りした刀のうち兜首の所持していたものを集めて調べさせると、八蔵の取ってきた刀が森長可のもので間違いございませんということになった。
- そこで八蔵になぜ刀を取ったものの首は差し出さなかったのかと問い詰めると、すでに首実検が終わっていたために近くの竹やぶに打ち捨ててしまったという。
- しかし、森の後に討ち取られた池田恒興親子の首実検は行われているため不審がられ、またせっかく取れた兜首を取り返されてしまったなどという噂も流れてしまい面目を失った八蔵は、続く蟹江城の戦いで討ち死にする。(落穂集)
こちらでは木屋という京都の研ぎ屋が森長可の刀であると指摘している。
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