加藤国広
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加藤国広(かとうくにひろ)
- 堀川国広の作
- 鎬造、三ッ棟、鋒少し延び、笠木こころに反る。鋩子は乱込み、地蔵ごころあり。笠は先を僅かに切って他は生ぶ。目釘孔2個。表やや棟寄りに太鏨で「國廣」の二字銘が入る。
由来
来歴
加藤清正→紀州徳川家
- 元は加藤清正が所持し、娘・八十姫(瑤林院)が紀州徳川頼宣へ輿入れした際に持たせたという。この時清正は、婿引出として「肥後江」を頼宣に贈っている。
八十姫の母は、清浄院水野忠重女。徳川家康養女として加藤清正に輿入れする。
将軍家→田安家
- のち、紀州藩5代藩主の吉宗が、紀州家から入って8代将軍となったときに将軍家に持参し、田安家が創立されると同家へ与えた。
「加藤国広」が田安家に移ったのは、1.吉宗の次男小次郎が享保14年(1729年)9月に元服して宗武と名乗り従三位左近衛権中将兼右衛門督に叙任した際か、あるいは2.享保16年(1731年)1月に江戸城田安門内に屋敷および賄料3万俵を賜り、田安徳川家を創設した際のいずれかではないかと思われる。遅くとも吉宗薨去の寛延4年(1751年)までには譲渡されている。
- その後は田安家に伝来した。
山本家→三井家
- 昭和のはじめに田安家から売りに出され、山本悌二郎氏を経て三井八郎右衛門11代三井高公氏が購入した。
太刀
國廣作 加藤清正佩用 一振
由緒 國廣、初銘は廣實、正親町天皇の御劍を作り奉りて、信濃守に任じ國廣の名を賜ふ。新刀第一と稱せらる。此太刀は彼が晩年の傑作で、加藤清正の命に依り其佩用として作れるものである。清正の女徳川頼宣へ嫁ぐに方りて之を持参、是より紀州徳川家に傳はるに至った。
山本悌次郎は新潟県佐渡郡生まれの実業家。明治33年(1900年)台湾製糖(三井製糖の前身企業の一つ)設立に参画し、社長となる。のち政治家へ転身し、昭和2年(1927年)の田中義一内閣、および昭和6年(1931年)の犬養内閣において、農林大臣として入閣する。「徳善院貞宗」も同様に山本が入手後三井家に譲渡しており、現在は同様に三井記念美術館所蔵。
- 昭和14年(1939年)5月27日に重要文化財の指定を受ける。
- 現在は三井記念美術館所蔵。
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