利休七哲
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利休七哲(りきゅうしちてつ)
千利休の高弟7人を指す呼称
- 漆屋源三郎(松屋久重)の「茶道四祖伝書」に”七人衆”として、加賀の肥前(前田利家)、蒲生氏郷、細川忠興、古田織部、牧村兵部、高山南坊(右近)、芝山監物の名を挙げているのが初見とされる。
- その後、利休の曾孫にあたる表千家の江岑宗左(逢源斎)の記した「江岑夏書」(こうしんげがき)の中では”利休弟子七人衆”として挙げられている。
一覧
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芝山宗綱(しばやまむねつな)
- 出自は不明。一説に摂津国小部付近に勢力を持っていた向氏(橘遠保を遠祖とすると自称)の一族とされる。
- 通称に源内、監物。
- はじめ石山本願寺の勢力下に属したが、荒木村重らと共に織田信長に接近した。天正6年(1578年)、村重が叛旗を翻した際には摂津国大和田城に安部良成らと駐屯していたが、揃って村重の下を離れ信長に帰順し、信長から黄金を賜ったといわれる。
- のちに羽柴秀吉の馬廻となり、のち、御咄衆として1万石を給せられた。軍目付などとして小田原征伐にも50騎、あるいは80騎を率いて従軍したという。
- 天正16年(1588年)正月秀吉参内の折には多くの供の中に名前が見え、また同年4月に後陽成天皇が聚楽第を行幸した際には先導役を務めたとされる。
- 天正9年(1581年)には津田宗及や山上宗二らを招いて茶会を行なっており、既に茶人として名が知られていたようである。
- 利休から長次郎作の名物黒楽茶碗「雁取」を贈られている他、現在確認されている利休の書簡のうち監物(宗綱)宛が一番多く、また利休最期の書簡も監物宛である。また、芝山型の手水鉢や芝山緞子などに茶道具にもその名を残している。
瀬田正忠(せたまさただ)
- 出自は不明
- 通称清右衛門
- 高山右近の推挙により豊臣秀吉に仕え、天正12年(1584年)に小牧・長久手の戦いに従軍している。従五位下掃部頭に叙任。
- 天正15年(1587年)の九州征伐、同18年(1590年)の小田原征伐等に従軍。小田原征伐では、徳川家康らが落城させた相模国玉縄城に古田重然と共に入り守備についた。また、天正16年(1588年)に後陽成天皇が聚楽第を行幸した際に、芝山宗綱と共に先導役を務めたとされるが、豊臣秀次と親しく、文禄4年(1595年)、秀次の粛清に連座して処刑された。
- 千利休の高弟として知られ、大きな平高麗茶碗や、後にその名をとって「掃部形」と称されることとなる、大きな櫂先を持った茶杓を愛用し、「さらし茶巾」と呼ばれる点前を考案したといわれている。
平碗に水を入れ、琵琶湖に見立て、茶杓を瀬田の唐橋に見立て、その中に茶巾を入れて絞るという涼しげな作法。「洗い茶巾」とも。
牧村利貞(まきむらとしさだ)
- 牧村兵部利貞は稲葉重通の長子(稲葉一鉄の孫)。
- 外祖父が牧村牛之助政倫であったことから、政倫の跡を継いで伊勢岩出城主となる。
のちの土佐藩主となる山内一豊が一時この牧村政倫に仕えている。
- 利貞は織田信長の死後、豊臣秀吉に仕えて馬廻となる。
- 牧村利貞は利休が信長に仕えていた頃からの弟子であり、「天王寺屋会記」で天正8年(1580年)1月14日に安土城で行われた茶会に、牧村利貞が「ユガミ茶碗」を使ったと記されている。
- 天正12年(1584年)には,豊臣秀吉の馬廻衆となっており、この頃、高山右近の勧誘によりキリシタンとなっている。天正13年(1585年)従五位下、兵部大輔に叙任される。
- 天正18年(1590年)には、秀吉より伊勢岩出城主となり伊勢国内において2万650石を与えられている。
- 文禄元年(1592年)からの文禄・慶長の役にも舟奉行として参加するが、文禄2年(1593年)7月10日、朝鮮において48歳で病死した。
- 娘が祖心尼。春日局の義理の姪という関係で大奥に入り、3代将軍家光側室お振の方の祖母となった。
異説
- 様々な茶書などで構成が微妙に変わり、織田長益(有楽斎)、千道安(利休の実子)、荒木村重(道薫)を加えて「十哲(じってつ)」と呼称される場合もある。
- また、千道安を除いて前田利長が入る、有馬豊氏や金森長近を加えるなど諸説ある。
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