六股長義
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六股長義(むつももちょうぎ)
刀
額銘 長義作
号 六股切
二尺四寸一分五厘、反り七分
- 備前長船長義の作
- 長義には、他にも八文字長義や山姥切などすさまじい切れ味を示したものが伝わる。
- 豪壮な鎬造りで大切先、佩表に二筋樋に剣巻き竜(草の倶利伽羅)、磨上のため竜の頭だけが刃区の上に出ていた。裏には二筋樋と素剣の彫り物。
- 中心磨上、中心先に「備」の字だけが残る。その上に「長義作」を額銘で嵌める。
- むつももぎり、むつまた
由来
- 家康家臣の大久保忠世の所持で、忠世はこの長義を「老の杖」と名付け秘蔵したという。
大久保加州ノ家ニ代々傳テ備前長義ノ刀アリ。始メハ異名ヲ老ノ杖ト云、七郎右エ門忠世ノ時代忠世手ニ掛ケテ野伏三人ヲ払ヒ切ニシタリシニ三人ノ股ヲ不殘打落タリ。夫ヨリ六ツノ股ト異名ス。稀代ノ重宝ニテ家中ノ輩重キ誓言ニハ必長義ノ刀ニ掛テト云。武田家ニテ御旗楯無ノ誓言ノ如シト云ヘリ。
この六股長義と申す刀は、大久保家の祖先七郎右衛門忠世というお方の所持で、生涯身を離さず帯しており、あるとき戦場にて敵三人の両股を見事に斬り離したという比類なき大業物で、その名がついたと申すことであります。これはかのお家の大切なるものでありまして、小田原城天守に籠め、神に祝い祀ってあったと申す、すこぶる貴重の名刀であります。この出来は、この作の約束どおり重ねが薄手で幅広く、切先が少し延びて、表裏に樋、元のほうに剣の彫りがあります。磨上て長義作と額銘になっております。中心を見ずとも一見すればただちにこの作と見えます。諸家にだんだん長義もありますが、まずこの二刀(※本作長義(山姥切)と六股長義)などが優れております。
(今村・別役刀剣講話)
- また別の逸話では、天正年間(天正二年)、大久保忠世は小田原城の城番となっていた。ある夜盗賊が3人忍び入ったのを、忠世がこの長義で払ったところ、三人共一刀で太ももを斬られ、どっと倒れたという。
遠州乾城(犬居城)攻めの際の逸話ともいう。天正年間に後北条氏支配の小田原城の城番というのもありえないため、こちらが正しいと思われる。
- 敵兵3人の合わせて6つの股を斬ったことから「六股」と号せられるようになった。
天正18年(1590年)に秀吉による小田原城攻めが行われ、その後の家康の関東移封に従い小田原城城には4万5千石で大久保忠世が入った。文禄3年(1594年)に忠世が死ぬと、嫡子の大久保忠隣が城主となる。忠隣は、大久保長安事件に連座し慶長19年(1614年)に改易され、小田原城は二の丸・三の丸の石垣・城門が破壊された。この後、阿部正次、稲葉正勝・正則が入った後に忠隣の孫に当たる大久保忠朝が入り明治まで続いた。この「六股長義」の逸話は前期大久保期のものと思われる。
天正2年(1574年)、遠江犬居城の戦の折りに、大久保忠世と水野忠重が殿(しんがり)を命じられ、そのとき追ってきた城方(武田方)天野景貫の兵三人の股を斬り払ったためとも伝わる。敵兵の抵抗により崖下に落とされるが、這い上がって待ち伏せしていた敵兵3人を切り払ったともいう。
来歴
- 以来、大久保家では藩士が誓いをなすときに「長義の刀も御照覧あれ、偽りは申す間敷」といったと伝わる。
- 小田原城の天守閣に祀ってあったが、いつのころか天守が炎上し、足軽の一人が駆け上りこの刀を抱えて飛び降りた。足軽は即死したが刀は無事であったという。
- この逸話は恐らく元禄16年(1703年)の南関東駿豆地震(元禄地震)に伴う火災で天守が焼け落ちた際のものと思われる。※後期大久保期の小田原城。
城辺り、近藤庄右衛門宅より火出でて、直ちに天守に火移り、焼け立ち、御殿へも火移
(小田原 近世史稿本下巻)
年月 | 城主 | 事柄 |
寛永10年(1633年) | 稲葉正則 | 駿豆相大地震により小田原城に被害 |
元禄16年(1703年) | 大久保忠増 | 南関東駿豆地震。石垣が崩れ、天守等が類焼 |
宝永4年(1707年) | 富士山が噴火して火山灰が降下 | |
天明2年(1782年) | 大久保忠顕 | 武相大地震。天守が傾き石垣が崩れる |
天保14年(1843年) | 大久保忠懇 | 天保地震 |
嘉永6年(1853年) | 大久保忠礼 | 嘉永大地震。城の各所に被害 |
- ※江戸期小田原城の主な災害。小田原城の歴史-歴史年表 | 小田原城【公式】
- 戦前まで大久保家に伝わる。大久保忠言子爵所持。
- 昭和15年(1940年)の紀元二千六百年奉祝名宝日本刀展覧会出展。
太刀 額銘 長義作(號六股切) 東京 子爵 大久保忠言
長さ二尺四寸一分(磨上) 反り七分 元幅一寸○六厘
此の刀は天正二年大久保忠世が遠州乾城攻に際し、敵兵三人の兩股を一刀の下に切斷したので、爾後六股切と稱し、小田原大久保家の重寶となる。- 鎬造、庵棟、大切先。表は二本樋に草の倶利伽羅、裏は二本樋に素剣。磨上茎の先に「備」の一字を残し、その上に「長義作」と額銘。
- 天正2年(1574年)大久保忠世が遠州犬居城攻めに際して、敵兵三人の両股を一刀の下に切断したため、六股切と称し小田原大久保家の重宝となった。棟に切込痕がある。
- 昭和17年(1942年)12月16日重要美術品認定
- 太平洋戦争の際に焼身となり放棄された。
逸話
- 明治期の教育者に弘田正郎氏という人物がおり、このひとが(恐らく明治末に)六股長義を見たときに、あまりに健全だったので惜しいと語った話が残っている。
ある時私は、翁のお供をして伊勢方面へ旅行することになつた。目的は名古屋徳川家と伊勢大神宮の刀剣拝観で、名古屋では徳川家の家扶に津中学の卒業生がいたので、翁と私が行くとその人は大変親切に、庫の中から名刀を出して来て見せて下さつた。随分沢山の名刀ばかりで、半日や一日では見切れない。かの有名な六股長義が出された時、一見した翁は家扶に向つて言つた。「なる程大した名刀だ。しかし惜しいことには、あんまり健全過ぎる。物打辺に大きなふくれでもあるともつといいが」と、これには私も呆れたが、家扶は目をパチクリさせていた。徳川家を辞して参宮鉄道に乗つた時、私は何故六股長義をあんなに言つたんですかと問うて見ると、翁の答が振るつている。「刀はきずでもないと偽物だと言われる。完全無欠だと信じられない。だからきずがあれば人は偽物だといわない」
弘田正郎は嘉永5年(1852年)生まれ。父は土居五藤家(土佐藩家老)の家士・弘田一作。五松学舎を開塾した。明治10年(1877年)に上京して東京高等師範学校に入学。高知県庁学務課となり各地の校長を歴任。明治18年(1885年)に県会議員、議長となる。のち千葉県師範学校、三重県立中学校の校長など。大正11年(1922年)4月東京で没。
息子の弘田龍太郎氏は作曲家。『鯉のぼり』『浜千鳥』『叱られて』『金魚の昼寝』『雨』『雀の学校』『春よ来い』『靴が鳴る』など多数が知られる。
元禄地震
- 元禄16年11月23日(1703年12月31日)午前2時ごろ、関東地方を襲った巨大地震。
- 震源は相模トラフの房総半島南端にあたる千葉県の野島崎と推定され、マグニチュード(M)は7.9-8.2と推定されている。
- 大正12年(1923年)に起きた関東地震(関東大震災)と同タイプの海溝型地震である上に、震源分布図も類似することから大正関東地震以前の関東地震と考えられている。
- 相模灘沿いや房総半島南部で被害が大きく、相模国(神奈川県)の小田原城下では地震後に大火が発生し、小田原城の天守も焼失する壊滅的被害を及ぼし、小田原領内の倒壊家屋約8,000戸、死者約2,300名、東海道の諸宿場でも家屋が倒壊し、川崎宿から小田原宿までの被害が顕著であった。
大久保隠州在城を初め城下の町々火半ハ震たふす、其中にも事たすかりし家も多くして城中より俄に出火あつて在々所々方時の中に炎滅せり。(略)老少男女津波の難を恐れ高江登り里を去り用心をせし所に、其高さ十丈余の津波黒雲の如くにおほひ来り八里か内に打上たり。数千の男女死をのかるゝにいとまなく一命を失ひしものすへて弐千余人也。男浪女浪の引けれハ半残りし男女己か在所に走り住にし里を尋るになごりもなくしらなみ岸にのこり浦々里々一宇も残らす滅亡せり。(震火記)
同名刀
- 同様に「六股」と名がつく刀がある。
六股助包(むつまたすけかね)
六股成宗(むつももなりむね)
- 備前福岡一文字成宗作の太刀。
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