八咫鏡
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八咫鏡(やたのかがみ)
概要
- 八咫とは大きい・多いという形容であり具体的な数値ではないとされる。
咫は中国の周の国の長さの単位で、一咫は大尺で約八寸(約18cm)。八咫で円周144cm、直径が約46cm。直径八咫の鏡は古代の技術では制作不可能という。
神話
- 天照大神が天岩戸(あまのいわと)に隠れて大騒ぎになった際に、石凝姥命が作ったとされる。、天照大神が祭りの様子をこっそり窺った時にその姿を映し、興味をいだいた天照大神が外に出てきたため、再び高天原と葦原中国は明るくなったという。
- またこの騒ぎのときに出来た傷が今も残ると伝わる。
- 天孫降臨の際、天照大神から瓊瓊杵尊に授けられ、この鏡を天照大神自身だと思って祀るようにとの神勅(宝鏡奉斎の神勅)が下されたという。
- 崇神天皇の時代に、鏡と剣は宮中から出され外で祭られることになったため、形代が作られた。
至于磯城端垣朝。漸畏神威。同殿不安。故更令斎部氏。率石擬姥命神裔天目一箇神裔二氏。更鑄鏡造劔以爲護身御璽是今践祚之日。所獻璽之鏡劔也。
(古語拾遺)
- 八咫鏡については伊勢神宮に納められた。
宮中賢所
- 内侍所に安置された神鏡は、天徳4年(960年)、天元3年(980年)、寛弘2年(1005年)に起こった内裏の火災により焼損している。
- 天元の際には半ばが焼失し、鏡の形をとどめないものとなった。さらに寛弘の際には、ほとんど灰になってしまい、やむなく灰の状態のまま保管した。
- このため直後から鏡を改鋳する議論が持ち上がり、諸道に勘文を提出させた。翌寛弘3年7月には一条天皇御前で公卿会議が行われ、左大臣藤原道長が改鋳を支持したものの、公卿の大半が反対したため改鋳は行われなかった。
平家都落ち
- 平安時代末期、平家の都落ちとともに西遷し、寿永4年(1185年)3月24日、壇ノ浦の戦いの際に安徳天皇とともに海中に沈み、それを源義経が八尺瓊勾玉とともに回収している。
禁闕の変
- 嘉吉3年(1443年)9月23日に起こった禁闕の変で、後南朝勢力が宮中を襲撃した際、三種の神器をのうち宝剣と神璽は奪われたが、神鏡のみは難を逃れ、翌日近衛殿に移された。
現代
- 八咫鏡は伊勢神宮にある御神体と、その御神体を象って作ったという皇居にある形代(複製)の2つがある。
- 伊勢神宮にある八咫鏡については、明治初年に明治天皇が天覧した後、あらためて内宮の奥深くに奉納安置されたとする。
- また皇居にある形代については、皇居内宮中三殿賢所に奉置されている。
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