仮名銘孫六
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仮名銘孫六(かなめいまごろく)
太刀
銘 かねもと
二尺三寸五分
- 美濃関孫六兼元の作
由来
- 銘が「かねもと」と仮名で切られているため。
来歴
- 土佐藩2代藩主の山内忠義が愛用した。
忠義は、初代土佐藩主山内一豊の同母弟山内康豊の長男として生まれる。一豊に男子がなかったため、のち伯父である一豊の養嗣子となり慶長10年(1605年)に家督相続した。正室には久松松平定勝の娘阿姫(光照院)を迎えており、秀忠より偏諱を賜ってもいる。
- 忠義は英邁であったが剛毅な人柄で、常にこの孫六を肌身離さず、少しでも腹立たしいことがあるとこの孫六で手討ちし、また家来が気に入らぬことを言い出すと「孫六を参るぞ!(手討ちにしてくれるぞ)」と一喝したため家臣は怖れたという。
- ある時、高知城下の荒倉山で猪狩りをした際、忠義自ら鉄砲を持ち、三番手に控えることがあった。家老としては万一のことがあってはならぬと、忠義の付近に老練な猟師を隠れさせ、いざというときには猪を撃ち止めよと命じてあった。
- そこへ、一匹の大猪が手負いの状態で三番手の方へ追い立てられてきたため、忠義はこれを仕留めんと十分に近くへ引き寄せてから撃とうとすると、やにわにそばから猟師が飛び出しこれを仕留めてしまった。
- 忠義の立腹ただごとではなく、いつものように「おのれ憎い奴め、孫六を参る!」と腰の孫六に手を掛けると、くだんの猟師は褒美に貰えるものと勘違いし「これは有り難う存じます」と両手を差し出した。
- 手を差し出されて斬るわけにもいかず忠義が困り果てていると、家老が駆け寄ってきてかくかくしかじかと委細を申し立てたため忠義もようやく得心したが、ふと猟師を見ると、まだ両手を差し出していた。
- そこで忠義も笑い出し、「孫六を参るとは、そちを手討ちにするつもりであったのだが、妙なやつだ。しかしこの孫六は秘蔵のものであるためそちにやることはできぬ。」といい、近習のものに何か代わりになる刀を持って来いと命じ、その猟師に与えたという。
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