九鬼正宗
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九鬼正宗(くきまさむね)
- やや内反り。裏に腰樋掻き流し。中心うぶ無銘、目釘孔2つ。
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由来
- 号は九鬼嘉隆の子・九鬼長門守守隆の所持にちなむ。
来歴
小早川隆景
九鬼家
- 九鬼嘉隆(大隅守、宮内少輔)の子、五朗八(長門守守隆の弟)は能の上手で、慶長のはじめに伏見城で踊ったのを賞してこの短刀を拝領したという。このときは正宗に極められていなかった。
- 関ヶ原の戦いで、五朗八は父・九鬼嘉隆とともに西軍につき敗北、慶長5年(1600年)10月13日に自害する。短刀は兄の守隆に伝わる。
- その後守隆が本阿弥に鑑定に出すと相州正宗と極まり、三百枚の折紙が付いた。よほど嬉しかったのか、埋忠寿斎に鎺を造らせている。いわゆる在銘の埋忠鎺のひとつ。
うめたゞ 寿斎 彦一入
- 同時に押形もとっている
竹中伊豆殿 九鬼長門殿 寿斎かなく仕候
竹中伊豆とは豊後国後高田の竹中重利。ただしこの刀では竹中は関係なく、「埋忠銘鑑」を写す際に誤って次に載せている刀の説明を入れたものらしい。
家康→伊予西条松平家
- 守隆から徳川家康に献上され、紀州徳川家徳川頼宣を経て伊予西条松平家の所蔵となる。
伊勢山田の松木修理政彦の子で、母が九鬼嘉隆の妹であったために九鬼姓を名乗った九鬼四郎兵衛(広隆)という人物がいる。後に、息子の九鬼豊隆が「九鬼四郎兵衛働之覚」を表し名を残した。
九鬼四郎兵衛は、織田信孝、桑山正晴、池田長吉、加藤清正と仕え、朝鮮の役で勲功を立てるが恩賞が少なかったために同家を出る。加藤家では重用され、愛用の「清正公長烏帽子形兜」を拝領したという。のち黒田長政、小早川秀秋、藤堂高虎と仕え大坂夏の陣では御旗奉行。のち紀州徳川家の徳川頼宣に千石で召し抱えられている。長烏帽子形兜はこの紀州家に伝わり、昭和8年の同家の売立にて徳川義親が金一萬圓(現在の価値で約1億円)で買い取り、現在は徳川美術館所蔵。
この「清正公長烏帽子兜」と、本刀九鬼正宗は同様に九鬼家から紀州徳川家に伝わっており、詳細は不明ながら九鬼四郎兵衛を経由した可能性がある。
- 昭和55年(1980年)の「国宝・重要文化財総合目録」では、松平頼実氏所持(松平頼和氏旧蔵)
短刀
無銘正宗(名物九鬼正宗)
附 金無垢二重鎺 銘埋忠寿斎
松平頼実氏は松平頼庸氏の養子。実父は一条実文。母が子爵松平頼庸の長女・好子。
- 現存、林原美術館保管。
- 国指定文化財等データベース:名物九鬼正宗
国指定文化財等データベースでは、所有者は株式会社林原、保管施設が林原美術館となっている。2024年に確認したところ、保管施設は同じながら、所有者はナガセヴィータ株式会社(旧:株式会社林原)となっていた。
- 国指定文化財等データベース:名物九鬼正宗
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