世古延世
世古延世(せこ のぶつぐ)
幕末の勤皇家
文政7年(1824年)~明治9年(1876年)。
世古恪太郎、子直
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概要
- 文政7年(1824年)伊勢松阪の生まれ。
- 生家は代々松坂西町一丁目大橋詰にて酒造をなし、紀州徳川家の御用達を務めた豪商黒部屋である。父は嘉兵衛仲延、母は津藩士矢島氏の娘。
- 通称、世古恪太郎(せこ かくたろう)
- 天保5年(1834年)、父の死去に伴い家督を相続し、嘉兵衛と名乗る。
- 伊勢外宮の神官で国学者の足代弘訓および津藩の朱子学者斎藤拙堂に師事する。
- 弘化2年(1845年)ごろ足代弘訓に従って上京し、京都で三條実万(実美の父)の知遇を得る。
弘化二年五月十四日延世師足代翁に従ひて、初めて公に謁見せり。此時公の御懇命を蒙り、大いに感激せることありて、志を立たり
- この頃から公家や志士と交わる。
- 嘉永4年(1851年)6月「恪太郎」と改める。
- 安政元年(1854年)紀州和歌山藩に軍用金を献上したことで苗字帯刀を許され、二十人扶持大年寄格となる。
- 安政5年(1858年)に孝明天皇が水戸藩に勅書を下賜した「水戸藩密勅事件」(戊午の密勅)の際にも奔走し、翌年5月2日に捕らえられ蟄居となる。
将軍臣下の水戸家に対して、朝廷が幕府の頭越しに直接勅書を渡したことで幕府の威信は失墜することとなり、幕府首脳(井伊直弼を中心とする南紀派)の怒りは頂点に達した。この時、水戸藩家老を始めとした家臣に厳罰が下され、さらに徳川斉昭は水戸での永蟄居、慶篤は差控となった(安政の大獄)。
- 江戸に護送の上で取り調べを受け、「江戸払・和歌山藩分払」となったが、齟齬があり浅草の溜へと送られてしまい、6日間想像を絶する地獄を体験しそれを著書に残している。
- 安政6年(1859年)10月27日の吉田松陰の処刑の際にも同じ牢にいたため、処刑場に連れ出される松陰の目撃談を残している。
此時空與の戸を開き假牢の戸をも開き、事を待てやがて申渡しの聲聞え、松平伯州長き申し渡し有り。終に大聲にて、公儀も不憚不屈の至に付死罪申附ると聞ゆるや否白洲騒敷、一人の囚人を下袴計にし、腕を捕二三人にして、白洲口より押出し来り、誠に囚人気息荒々敷軆なりき。直に假牢に押入立ながら、本縄に縛せり。
予是を観るに、寅次郎なり。一人の同人寅次郎にいふ。御覚悟は宜うゴザリ升す歟と。寅次郎答に素より覚悟の事でゴザリ升す。各方にも段々御世話に相成升たといふや、否直に押出し、彼駕に押込戸を〆ると直様、彼同心大勢取巻飛が如くに出行たり。
(略)
予が駕と假牢と隔つ事六尺計、吉田の駕は其間に置たれば、巨細に見る事を得て、心中實に悲動長大息に堪ざりし事なり。去寅年後久敷蟄居せし故歟。此時は總髪になり居たり。時年三十歳なり。
なおこの「囚人気息荒々敷軆なりき」という記述により、吉田松陰が最期の時取り乱したという説があるが、松陰は「死罪に対する抗議」で取り乱したのではなく、「ふんどし姿(囚人を下袴計にし)にされたことに対する抗議」故によるものとされる。現にその後「寅次郎答に素より覚悟の事でゴザリ升す」と覚悟していると述べている。世古延世が牢にいた期間は、10月27日~11月3日の6日間である。※10月は29日まで。
- その後世古延世は、文久2年(1862年)に三條実美に召し出され、その懐刀として国事に奔走する。
- 明治維新後は、明治2年(1869年)2月に京都府権判事、少弁、留守権判官、留守権判官を経て明治3年(1870年)には宮内権大丞を歴任した。
- 權辯事:明治2年(1869年)2月21日~
- 少辯:明治2年(1869年)7月27日~
- 留守權判官:明治2年(1869年)8月19日~
- 明治6年(1873年)病のため官を辞す。
- 明治9年(1876年)9月22日、東京で病没。享年53。
著書
- 「唱義聞見録」、「銘肝録」、「東行日記附録地獄物語」などを著した。
- ただし、維新史料の編纂者から、内容は面白いものの小説的な潤色が施されており注意が必要とも書かれている。
世古格太郎ノ唱義聞見録ハ、頗ル當時ノ状態ヲ知ルニ足ルヘキモノナリ。然レトモ固是レ見聞ニ繋ルヲ以テ、或ハ事實ニ誤アルヲ免レス。
- にも関わらず、他の書には見られない逸話秘話が書かれていることで注目に値するとも書かれる。
而してその記事中には、往々他の書では見ることの出来ない逸聞秘話を傳へて居り、その中には公表を憚るが如き節もないではない。何れにするも斯る意味に於て、此の書が幕末史研究者の注目に値することは、云ふまでもない。
- ただし、維新史料の編纂者から、内容は面白いものの小説的な潤色が施されており注意が必要とも書かれている。
- 「地獄物語」の世界 江戸時代の罪と罰
- 名古屋大学附属図書館企画「地獄物語」電子展示
逸話
古社寺保存法の立案
- 明治元年(1868年)3月布告の「神仏分離令」により、いわゆる廃仏毀釈の嵐が吹き荒れ、古い寺院に所蔵されている仏像を始めとした文化財が散逸、廃棄されていった。
- こうした中、政府は明治4年(1871年)5月に「古器旧物保存方」の太政官布告を発し、古器旧物の目録、および所蔵人の詳細なリストの作成と提出を命じている。
- 世古延世は、明治5年(1872年)から山城(京都)、大和(奈良)の古社寺を調査するとともに、内務省内の諮問機関である古社寺保存会の設立に動き、古社寺保存法を立案する。
- 世古延世書翰 : 大隈重信宛
大隈重信宛に古社寺宝物調査の報告を行った書状。
- 世古延世書翰 : 大隈重信宛
名物帳の転写
- 刀剣界では、「享保名物帳」を世に広めた人物として知られる。
一、刀剣名物帳は、八代将軍の享保四年己亥霜月本阿弥市郎兵衛より光徳以来の控帳によりて、上下二冊に綴り久世大和守を経て奉りしものにて、今世に行はるゝものは當時の副本が本阿弥家にありしを、世古延世と云者寫取りて世に出せしなり
(詳註刀剣名物帳)上下二冊になつてゐたのを副本を一つ家へ留置てあつたが、其後世古延世といふ人が寫取つて流布するやうになつた。
(川口陟 刀剣雑話)
- 「享保名物帳」は、一般に享保年間に将軍吉宗の命により、本阿弥家が提出した名物控帳(実態は本阿弥家内部の留帳)であるとされ、本阿弥家では副本を作成し保管していた。
- ※詳細は「川口陟#名物帳について」を参照のこと
- これを明治になって世古延世が転写したことにより、余に広まることとなった。
死亡記事
- この世古の明治9年(1876年)9月の死亡記事は、毎日新聞の前身である「東京日日新聞」誌上、初の死亡広告となっている。
新聞紙上初の死亡記事は、明治6年(1873年)1月14日の「日新真事誌」における外務少輔上野景範の父、上野景賢のものである。
関連項目
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