真柄斬り


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 真柄斬り(まがらぎり)


銘 兼元
青木兼元
刃長70.6cm、反り1.51cm、元幅3.1cm、先幅2.5cm
重要美術品
個人蔵

  • 室町期の美濃関の刀工孫六兼元の作。
  • 「青木兼元」、「真柄切兼元」とも
  • 二尺三寸三分、孫六の作刀の中でも最高傑作とされる。
  • うぶなかご、目釘孔2個。兼元二字銘。

 由来

  • 姉川合戦で、徳川家臣青木所右衛門一重(忠助、民部少輔)が北陸一の豪の者と謳われた真柄十郎左衛門直隆・十郎隆基父子を討ち取った刀と云う。
    ※十郎左衛門直隆は徳川家臣勾坂(向坂)三兄弟が協力して討ち取ったとも言われており、実際には息子の十郎隆基を討ち取った際の逸話ではないかといわれる。

 来歴

  • 青木一重は生前遺言しており、子の甲斐守兼之が丹羽長重に贈っている。
  • その後陸奥二本松藩主の丹羽家に伝来した。
  • 明治末には陸奥二本松藩主家の丹羽長保(上杉斉憲の11男)が所持していた。
  • 昭和14年(1939年)に重要美術品に認定
    同年9月6日に重要美術品認定された刀と同物だと思われる。子爵丹羽長徳所持。丹羽長徳は宇和島藩主・伊達宗徳の六男として生まれ、1902年9月、子爵・丹羽長国の養子となり長徳と改名した。明治37年(1904年)に養父の死去に伴い、子爵を襲爵。
    ━━丹羽長保──丹羽長国━━丹羽長徳──丹羽孝一(17代当主)──丹羽長聰(18代当主)
  • 終戦後は同家を出て、昭和43年(1968年)には金立石兵衛氏蔵。


 青木一重

戦国時代の美濃の豪族
従五位下、民部少輔。忠助、所右衛門
美濃斎藤氏、今川氏真、徳川家康、丹羽長秀豊臣秀吉・秀頼、徳川氏と主君を替え、最期は摂津麻田藩1万2千石に収まった。

  • 青木氏はもと美濃の豪族で、守護職土岐氏のち斉藤氏に仕えた。
  • 青木一重は、父重直の元を離れはじめ今川氏真に仕えて新阪の戦いで首級を挙げ、褒美に黄金を賜る。今川氏没落後は徳川家康に仕えて元亀元年(1570年)の姉川の戦いで真柄直隆(子の真柄隆基とも)を討ち取る武功を挙げた。
  • 元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いでは本多太郎左衛門に従って出陣し高天神城の守備にあたっている。
  • しかしその後天正元年(1573年)には徳川氏の元を出奔し、丹羽長秀に仕えていた父重直を頼った。
  • 天正10年(1582年)に本能寺の変で信長が横死した後も丹羽氏に仕えて山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いなどに参加している。
  • 小牧長久手の戦いの後、秀吉に請われ黄母衣衆となった。
  • 天正13年(1585年)には摂津や備中、伊予などに併せて一万石を与えられ、天正14年(1586年)、従五位下民部少輔に叙任される。
  • 秀吉没後は豊臣秀頼に仕え、速水守久や伊東長実らと共に秀頼の親衛隊である七手組の組頭を務めていたという。
  • 大坂冬の陣の後、和議交渉の一環として家康のもとへ赴いたとき徳川方に捕らえられ、のち摂津麻田に所領を与えられ、摂津麻田藩初代藩主となった。
  • 麻田藩は青木氏が幕末まで相続し、明治維新後は華族に列せられ、明治17年の華族令で子爵に叙爵された。

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