赤羽刀

赤羽刀(あかばねとう)  

第二次世界大戦直後の連合国軍占領下の日本において、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ)の指令によって接収された刀剣類のうち、東京赤羽にあった旧陸軍倉庫に入れられた刀剣類

  • 「GHQ刀狩り」
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  • 話は昭和20年(1945年)、日本がポツダム宣言を受諾し無条件降伏したところから始まる。
    日本政府は8月14日にポツダム宣言の受諾を連合国各国に通告している。

経緯  

米軍兵士による略奪  

  • 昭和20年8月28日朝に米軍先発隊が厚木飛行場に到着すると、米軍兵士は勝手に日本刀の略奪を開始する。
    これは8月19日にマニラで行われたマニラ会談において手交された「一般命令第一号」に基づく。11条では次のように定めている。「日本國大本営及日本國当該官憲ハ聯合國占領軍指揮官ノ指示アル際一般日本國民ノ所有スル一切ノ武器ヲ蒐集シ且引渡ス為ノ準備ヲ為シ置クヘシ」
  • その後、30日にはマッカーサー元帥が到着し、その略奪が激しくなったため、たまりかねた日本側は、連合国軍最高司令部との間に設けられた大本営連絡委員会(有末機関)において武器は日本側で収集し米軍へ引き渡すことを申し入れた。しかし略奪はやまなかったという。
  • 9月3日、ミズリー艦上での降伏文書調印式の翌日、河辺正三参謀次長は、サザーランド参謀長に対して、日本刀は単なる武器ではなく家宝である旨を強調するも、日本刀の件は有末機関と交渉することになった。この交渉の間も日本刀の略奪は止むことがなかったという。
  • 9月6日、東日本を占領している第八軍から、軍刀ではない将校の刀剣は所持許可するとの連絡があり、翌7日にキャドウェル憲兵司令官は将校の私物刀は米軍憲兵隊に申し出れば所有を許可するが、米軍の指定する場所に保管し、家庭での保管は許可しないと通告があった。
  • 9月11日、米軍最高司令官から日本刀は昔からの家宝だけ残し購入したものは没収するとの命令が出、一般人の刀剣は警察署に提出する事となる。
  • そして12日にはサザーランド参謀長は、個人の所有を含むすべての刀剣の破棄を要求してくる。驚いた有末機関はサザーランド参謀長を尋ね、没収には家宅捜索もやるのかと質したところ、将校の所持刀はしても一般人のものはしないと言明したが、実際には民家の屋根裏まで捜索した例もあったという。
  • さらに電波探知機を使用して捜索し、もし発見された場合には沖縄に重労働にやられるとの噂が流れ、また日本人同士での密告も行われたという。
  • こうした事態を憂慮し、有末機関が改称した陸海軍東京連絡委員会では執拗に日本刀没収の緩和を訴え続ける。

方針転換  

  • こうした運動が奏功し、9月22日米軍軍政部は、日本刀の接収は10月末日までに完了するよう、また、記念品など特別な事情のある日本刀は破棄の対象から外しと態度を軟化させ、9月25日には日本刀の接収は日本の警察機関に行わせると譲歩する。
  • その後も陳情の手を緩めなかったところ、10月24日には最高司令官から、善意の日本人の所有する美術品としての日本刀は、審査の上で保管を許可するという指令が出された。
    日本刀保護の論理は、「一般日本國民ノ所有スル一切ノ武器」から除外するために、家宝から記念品など、さらに美術品としての日本刀と、方針が転換されていることがわかる。

    この時、計画を知った本間順治がかねてより交流のあった長尾よねに相談し、東大教授児島喜久雄の案内により9月2日には東久邇宮稔彦第43代内閣総理大臣(昭和22年10月14日に皇籍離脱)に面会の上相談すると、近衛(文麿)にも相談すべしということで、女婿で秘書を務めていた細川護貞に相談し近衛文麿に話が通じたことでこの問題が認知されたという。
  • 佐藤寒山「日本名刀物語」にも次のように書かれている。

     思いつめた私どもは、なんとかして刀剣を護らねばならない、救わねばならないと文字どおり東奔西走、進駐軍に嘆願やら説得やらで、八方手を尽くした。その第一線に立ったのが本間博士であり、及ばずながら私も全力を挙げた。しかもそのはじめは、交渉の窓口すらもわからなかった。それが横浜の第八軍憲兵司令部であることを知ったのは、昭和二十年もまさに二、三日を残す十二月の末であった。

     やっとのことで、美術的価値ある刀剣は日本の権威者の審査の上、国民が保管してもさしつかえないという覚え書をもらったのが、昭和二十一年五月である。美術的価値ある刀剣、こんな言葉はその以前にはなかった言葉である。これは昔から軍刀程度とか軍刀むきとかいう言葉があって、刀剣愛好者や専門家の間では、自然のうちに実用刀とそうではない高級品との区別が厳然とあったものである。この高級な日本刀が美術品であり、一口に刀剣といっても、すべてが武器ではないということを進駐軍に理解させ、認識させるためには、非常な努力と日時をついやしたのである。そして日本刀が晴れて美術品として鑑賞できるようになるまでは、さらに多くの時間を必要とした。

     昭和二十三年の春に、国立博物館(いまの東京国立博物館)で刀剣の大展覧会を開催したのは、日本刀の美しさを世界にむかって宣言したものであり、敗戦によって自信を喪失した国民に、大きな誇りと信念を与えたものと信ずる。

  • これにより、日本刀処理は日本の内務省・文部省の手に移った。しかしその後も引き渡しの督促や引き渡した日本刀に対して米軍の手による海洋投棄やガソリン焼却などが行われた。
  • 昭和21年6月3日付の勅令で、それまで米軍の手にあった日本刀審査権と所持許可権が日本の内務省に譲渡され、内務大臣の任命し刀剣審査委員会が発足することとなった。
  • 委員は全国で60余名任命され、美術品と認めたものは所持許可証が与えられた。この時、古来の日本刀の鍛法により製造されたものは原則許可されることとなる。

赤羽への保管と国外持出  

  • いっぽうそれ以前に接収されたものは、昭和21年3月までに北海道から岐阜縣までのものは第八軍、近畿中国地方は第六軍、九州四国地方は第五海兵隊がそれぞれ保管していたが、やがてそれらは東京赤羽の旧工兵隊跡地にあった第八軍兵器庫に集められた。その数は、脇差、鎗、薙刀などを含み、20万口を越える膨大なものとなった。
  • その後審査委員20数名により判別され、昭和22年(1947年)、美術品と認められた数千本は上野国立博物館(東京国立博物館)に搬入され、不合格刀は米軍により破棄された。
  • 昭和24年(1949年)4月、国家地方警察本部が作成した「進駐軍より返還せられた刀剣類作者別分類目録」では、その総数が5037(4460)振りとなっており、そのうち1132振りが所有者に返還されたという。
    なお「接収刀剣類の処理に関する法律」にもとづき、平成8年8月29日付の「官報」に告示された「赤羽刀」の数は、4576本。また文化庁文化財保護部美術工芸課が、平成12年につくった「赤羽刀(接収刀剣類)」という冊子では約5500本となっている。要するに著しくズレがあるということ。

日本への里帰り  

  • 進駐軍兵士により米国など日本国外へ持ち去られた日本刀の数は、万をもって数えられ、その中には国宝重要美術品も相当数含まれていた。
  • 平和条約締結後、1947年(昭和22年)には豊後正宗や備前国宗、長船兼光、相州秋広など重要美術品クラス以上のほか、約5600口の日本刀が里帰りした。
    • ただし「本庄正宗」など現在でも里帰りしておらず行方不明となっている刀は多数ある。

所有者への返還  

  • その後、元所有者への返還が始まり、1132口が所有者などに返還されたが、4576口が所有者不明のまま国の所有として東京国立博物館の収蔵庫で保管された。
  • その中には、重要美術品に相当するのものは含まれていなかったが、およそ4000口には銘があり、「刀匠の出身地でなら、十分展示に値する」と評価されたものの、長期間放置されていたため研磨を要する状態になっていた。
  • 戦後50年にあたる1995年(平成7年)には「接収刀剣類の処理に関する法律」が成立して1996年2月から施行され、国への移管が行われる。同時に、文化庁が元所有者からの返還請求を受け付け、審査の結果7口は、元所有者やその遺族に返還された。
  • 1999年、なお国の所有に残ったもののうち3209本が、広く公開・活用を図るため、転売せず一般公開することを条件に全国191の公立博物館に無償譲与されることになった。


関連資料  

経緯  

一般命令第一号  

接収刀剣類の処理に関する法律