藤原致忠

藤原致忠(ふじわらのむねただ)  

平安時代中期の貴族
藤原南家巨勢磨流
大納言藤原元方の子
官位は従四位下・右京大夫

系譜  

                【南家巨勢麻呂流】    橘道貞
藤原鎌足──不比等──武智麻呂──巨勢麿──黒麻呂┐    ├──小式部内侍
┌────────────────────────┘  和泉式部
│                     元明親王娘   │
│                       ├───藤原保昌
└─春継──良尚──菅根─┬─藤原元方─┬─藤原致忠─┬藤原保輔
             │      │      └娘
             │      ├─藤原陳忠  ├───源頼信──源頼義
             │      │      源満仲──源頼光
             │      └─祐姫
             │         ├──┬─広平親王
             │醍醐天皇───村上天皇 └─緝子内親王
             │  ├──┬─長明親王 
             └─淑姫  ├─源自明
                   └─英子内親王(斎宮)

祖父:藤原菅根  

致忠の祖父参議菅根は文章生出身の学者。菅原道真の推挙を受け醍醐天皇の侍読となる。しかしのち、延喜元年(901年)の道真左遷事件に際しては、藤原時平と結託して宇多上皇の参内を阻止する。延喜8年参議、延喜10年に死去。道真の祟りによるものと噂された。

父:藤原元方  

父中納言元方は文章得業生より出世して娘の祐姫を村上天皇の更衣に入内させ、祐姫は天暦4年(951年)に村上天皇第一皇子広平親王を産む。

親王の外祖父となった元方は、親王の誕生により中納言から大納言正三位民部卿に上るが、関白太政大臣藤原忠平の息子右大臣師輔の娘である女御安子の産んだ第二皇子憲平親王(冷泉天皇)が村上天皇の東宮に選ばれると受領貴族となる。

この時大きく失望した元方は、絶望の余り病となり天暦7年(953年)に悶死したという。また後ろ盾を失った広平親王も天禄2年(971年)に22歳で没する。二人はその後怨霊となり、藤原師輔、冷泉天皇、花山天皇、三条天皇に祟ったという。

この後、後一条天皇の即位まで約50年間、冷泉系と、その弟の円融系との間で皇位迭立が続き、円融系を父方、冷泉系を母方とする後三条天皇の即位で両皇統は融合される事となった。それは同時に藤原氏を外戚としない天皇の誕生でもあった。そのため藤原教通が「壷切ノ剣」を献上しなかったという逸話が残る。後三条の後、白河、堀河、鳥羽と院政期と武士の台頭の時代へと変遷していく。

弟:藤原陳忠  

弟の藤原陳忠は、今昔物語集 巻28「信濃守藤原陳忠落入御坂語 第三十八」の逸話で知られる。受領地である信濃から京都へ帰る途中で馬ごと谷に落下するが、引き上げてみるとヒラタケを掴んでおり「受領は倒るるところに土をつかめと言うではないか。」と言い放ったという。

 

  • 藤原保昌
  • 藤原斉光
  • 藤原維光
  • 藤原保輔
  • 女子(源満仲の妻):子に大和源氏の祖源頼親や、河内源氏の租源頼信がいる。
    • 源頼信は平忠常の乱を平定して名を挙げ、その後坂東武者と主従関係を結ぶようになり、後の東国支配と武家源氏の主流となる礎を築いた。
    • 源頼信の子が伊予守源頼義である。源頼義の子に八幡太郎源義家、賀茂次郎源義綱、新羅三郎源源義光らがおり、いわゆる武家源氏はこの源頼義を共通の祖としている。
【河内源氏】

頼信──頼義─┬義家─┬義親=為義─┬義朝─┬頼朝──頼家
       │   │      │   └義経
       │   │      │
       │   │      ├義賢─義仲
       │   │      └為朝(鎮西八郎)
       │   │
       │   ├義国┬義重─義兼─義房─政義─政氏─基氏─朝氏─義貞
       │   │  │(新田)
       │   │  └義康──┬義清──義実──義季(細川)
       │   │   (足利)├義長
       │   ├義忠     └義兼──┬義純(畠山)
       │   └為義          └義氏──┬長氏(吉良・今川)
       │                     └泰氏┬家氏(斯波)
       └義光┬義業(常陸源氏佐竹)            ├公深(一色)
          ├義清(甲斐源氏武田)──清光┬光長(逸見)  └頼氏(足利)
          └盛義(平賀)        └信義(武田)