野狐丸

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野狐丸(のぎつねまる)  

太刀
銘 友成
二尺六寸六分

  • 生ぶ中心、目釘孔4個。一番上の左側に友成二字銘。
  • 古備前友成作の太刀

由来  

  • 矢島家先祖の矢島清兵衛が24・5歳のころ、秋田郡岩城において狐に化かされ、周囲が見る見る川になった時、腰の古備前友成が勝手に抜け出し、白狐の首を切り落とした。
  • このことから名づけたという。

来歴  

矢島氏  

  • 出羽の豪族由利十二頭の矢島家伝来。
    矢島家は由利郡矢島に勢力を張った武士団。仁賀保氏とは近い同族関係にあったが、一族内の主導権争いから終始敵対した。仁賀保氏と争い、四代続けて当主を討ち取るなど宿敵の関係にあった。文禄の役の際の領国の混乱に乗じて仁賀保氏に滅ぼされたとされる。
  • 戦国期の矢島満安は剛勇で、満安の愛馬も陣貝の音を聞くと勇み立って大豆八升を食うので、八升栗毛と名付けられた駿馬であったという。満安を殺そうと呼び寄せた最上義光も、この風貌と大食漢ぶりに驚き逆に協力を申し出たという。

    身の丈六尺九寸有て、熊の如く鬚有て尋常の五、六人して喰うべき飯を一人して食し、其上大きなる鮭の魚の丸焼を一本引けるに首尾ともに少しも残さず食し、彌々數の料理を露も残さず。酒を飲に五器の大なるを以て七度まで傾けたり。義光此者が面魂を見給ひて天晴骨柄人に超たり鬼神ともいひつべし。彼を殺さん事の惜さよと忽心變じ給ひて満安に對面有ていかに矢島御邊を招きぬる事全く十二黨の頭にせん爲にあらず。忻て討んためなり。然るに今御邊が骨柄を見るに討も惜き故命を助るぞ。此上は黨の者共の野心あらざるやうに是よりして計らふべし。しかのみならず來年上洛の刻、必伴ひ上りて殿下の御見参に入べし。

  • 矢島氏以外の仁賀保氏ら由利十二頭は最上氏と親交を深め、矢島氏は孤立する。満安の弟・与兵衛は最上氏に唆され謀叛を起こし、また「文禄の役」で出兵した隙を狙い仁賀保氏を旗頭とする由利十二頭は一斉に矢島氏へ侵攻、豪勇を誇る満安も衆寡敵せず妻の実家である西馬音内城主の小野寺茂道のもとへ逃亡する。

    満安聞て然らば疾々其旨計らふべしと頓て柴田半田を召て北の方姫御前を伴ひ西馬音内へ落し奉れと下知すれば相心得候と夜半に紛れて落行けり。満安は肌に鎖帷子上に鎧一縮して四尺五寸の太刀、二尺三寸の太刀を指添七尺の樫の棒を杖につき馬にては叶じと前立に成て赤尾津かかためし山の手の難所を上り落んとぞ云れける。

  • しかし最上義光は小野寺氏にも謀略をかけており、小野寺茂道は宗家・小野寺義道の疑いを受け軍勢を差し向けられ自刃。満安は、自らが茂道に対する疑惑を招いてしまったとして翌文禄2年(1593年)、西馬音内城内で自刃、矢島氏は滅亡したという。
    しかしすでに秀吉の惣無事令が出されており、かつ奥州仕置に矢島氏の名が見えないことなどから天正ごろの話であるとされる。

岩城氏  

  • のち「野狐丸」は岩城城主岩城貞隆に献上される。
    岩城貞隆は佐竹義重の三男。のち岩城常隆の養嗣子となり、天正18年(1590年)に常隆が病死したため、岩城家の家督を継いだ。関ヶ原の戦いでは当初は東軍方についたが、兄の佐竹義宣の命に従って上杉景勝征伐に参加しなかったため、戦後の慶長7年(1602年)に義宣と共に処分を下された。佐竹家は減封、岩城家は所領を没収される。
                ┌岩城親隆(岩城重隆養子)
                ├阿南姫(二階堂盛義室。大乗院)
                ├伊達輝宗
                ├女子(伊達実元室。鏡清院)
                ├留守政景(留守顕宗養子)
                ├石川昭光(石川晴光養子)
           伊達晴宗 ├宝寿院(義重室)
            ├───┴国分盛重【秋田伊達氏】
         ┌─久保姫   伊達晴宗娘      ┏佐竹義直
         │ 佐竹義昭    ├──┬佐竹義宣━┻佐竹義隆
         │   ├───佐竹義重 ├蘆名義広
    岩城重隆─┴─重隆娘        ├岩城貞隆──佐竹義隆【久保田藩2代藩主】
       ┃              ├岩城宣隆【出羽亀田藩主→久保田藩士多賀谷氏】
       ┃              └佐竹義直
       ┗岩城親隆──岩城常隆─┰伊達政隆【岩谷堂伊達氏初代】
                   ┗岩城貞隆
    
    

佐竹氏  

  • 寛永3年(1626年)4月2日貞隆の四男義隆は、伯父に当たる秋田城主佐竹義宣の養子に迎えられ(佐竹義隆)、「野狐丸」をもって婿入りした。
  • 寛文5年(1665年)に本阿弥に鑑定に出してきた時に由来を尋ねると、次のような話であった。
    • 佐竹家の家来矢島源太左衛門が、ある時娘とぶつかりこの太刀で斬りつけたがどうしても切れなかった。しかしその後この太刀を借りていった人物が牛皮鎧ごと人を斬ったがその後も斬れ味が落ちることはなかったため、持ち主は娘が斬れなかったのは我家のことを思ってのことであったのだと感激したという。
  • 元禄16年(1703年)にも鑑定に出し、本阿弥光忠が五十枚の折紙を付けた。
  • 明和4年(1767年)に本阿弥光蘇が出羽秋田城下をまわり鑑定を行っている。この時の極めは三百枚となっている。
  • 明治になると秋田市の辻家が買い取った。


関連項目  

  • 野干丸」…※野干とは狐の異名。