くろんぼ斬景秀


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くろんぼ斬景秀(くろんぼぎりかげひで)  

太刀
銘 景秀
二尺四寸一分、反り五分九厘
重要文化財

  • 「黒坊切」「黒奴斬」、「鞍割り景秀
  • 鎬造り、庵棟、反り比較的少い。中心磨上、中心先に「景秀」二字銘、秀の字は半ば切れる。目釘孔4個。

由来  

  • くろんぼ切りの異名は、黒人を切ったためと言われているが、伊達家の記録では蔚山攻めでサル(猿をくろんぼという)を切ったための号であるという。
  • 猿や猫はすばしこい為によほどの腕が無ければ斬れないとされ、政宗の腕の確かさと、長船派の中でも屈指の名刀であることから異名を付けたと思われる。
  • また一説には牛のような韓人を斬ったためという。

    征韓の後諸大名閑に乗じて試斬す。一韓人あり。大きさ牛の如し皆斬り余す。公(伊達政宗)乃名刀景秀を出し此にて試すべしと云ふ、浅野長政加藤清正兼て公と仲悪ければ何れも手を余せし代物なれば無益なりと断る。公清正に向かひていや我小姓の刀なり斬って見給へと云ふ。清正も情酌の様子にて遂に大男を斬る。一ノ胴を断って上檀下に打込む事五六寸流石の清正も臍を冷しなかなかたゞでは抜けまじと鍬もて掘出す。見るもの驚かざるなし。
    (仙台士鑑)

    高麗陣ノ時、日本ノ諸大名皆出テタメシ物ヲスル時ニ、牛程アル大ノ男ヲ斬余シ棄置シヲ此刀ニテ切ルヘキ由ヲ申セハ、加藤肥後、浅野弾正何レモ余シタルニ無用ナリト申サル、肥後弾正兼テ我等ト中悪シ、故ニ、我等イヨゝ切テ見タシト云ヒ、是ハ小姓ノ刀ナリ、是ニテ切玉ヘト云ヒケレハ、肥後酙酌ノ様子ニ見エシヲ、強テ切セタレハ、一ノ胴ヲ切リ、土壇ノ下ニ五六寸打込ム、流石ノ加藤モ肝ヲ消シ、中々只ハ抜レマシト鍬ヲ以テ掘出ス、是ノミナラス、数度試覚アリ、弥秘蔵アルヘシ
    (伊達治家記録)

    朝鮮征伐の際、諸大名が暇に乗じて試し斬りを行ったとき、中に非常に大きな死体があり誰もがもてあましていた。政宗がこの景秀を出し「これで斬ってみられよ」といったが、浅野長政や加藤清正は普段から政宗と折り合い悪かったこともあり、「無益なのでやめたほうがいい」と乗り気ではなかった。しかし政宗が重ねて「これは小姓の刀なのでご遠慮なく」といったために清正が斬ったところ、一ノ胴を斬りさらに土壇にまで打ち込んでしまったため刀を鍬で掘り起こしたという。斬った男は「さる身と云もの(御刀剣記)」とも書かれ、当時秀吉軍は朝鮮人をサルミ(朝鮮語のサラムィが訛ったという)と呼んだという。

  • 鞍割り景秀
    • 一説に「鞍割り景秀」と呼ばれる。朝鮮出兵の際、政宗は敵将の逃げていくのを追っていき、頭から鞍まで切り割ったという。

来歴  

  • もとは陸奥石川氏重代の刀で、石川昭光から献上されたものであるという。

    景秀ハ元ハ石川ノ重大(重代)ナリ、柄曲トマランニ引替タリト云フ

    「柄曲」という刀と交換で入手したというが詳細は不明。石川昭光は政宗の祖父伊達晴宗の四男で、陸奥国石川郡三芦城主・石川晴光の娘照子を娶り養嗣子となる。

  • 政宗は、正月にはこの景秀を差したという。

    公毎年元日ニハ白綾ノ御小袖ニ菊桐ノ御紋付クルヲ召サセラル、御長袴ノ上ニ御小サ刀鎬藤四郎ノ御小脇指ヲ指セラル(略)近年ハ、此鎬藤四郎ノ小脇指ヲ指ス、刀ハ景秀亘理来鎺国行ナリ、此三腰ハ何レモ劣ラヌ大役、身ヲ放タヌ重宝ノ道具ナリ

  • 御腰物方御道具本帳

             元禄八年十月三日
    備前景秀御刀    金弐百枚
      銘在 長弐尺四寸壱分

  • その後は仙台藩主伊達家に伝来した。
  • 明治16年(1883年)~17年ごろまで仙台南町御蔵にて保管。
  • 昭和に入って伊達氏32代当主の伊達興宗伯爵が所持している時に、旧国宝に指定されている。
  • 昭和15年(1940年)の名宝日本刀展覧会にも出品されている。

    太刀景秀 (國寶・名物くろんぼ斬) 東京 伯爵 伊達興宗