藤原保輔
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藤原保輔(ふじわらのやすすけ)
平安時代中期の公家
藤原南家巨勢磨流
官位は正五位下・右兵衛尉。
祖父は大納言藤原元方、父は従四位下右馬権頭藤原致忠、兄は和泉式部の後夫藤原保昌。
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盗賊の首領
- 「尊卑分脈」で「強盗の張本、本朝第一の武略、追討の宣旨を蒙ること十五度」と書かれる
右馬助正五下
右京亮右兵衛
保輔 強盗張本、本朝第一武略、蒙追討宣旨事十五度、後禁獄自害
- 下総守藤原季孝に対する傷害事件のほか、弾正少弼大江匡衡が何者かに襲われ左手指を切断した事件、兄藤原斉明を追捕した検非違使・源忠良を射た罪、前越後守藤原景斉・茜是茂の屋敷への強盗を行った罪などにより、朝廷から追捕した者に恩賞が出されることになった。
- さらに父・致忠が検非違使に連行監禁されたことから、保輔は永延二年(988年)6月14日に北花園寺で剃髪・出家するが、まもなく以前の手下であった足羽忠信によって捕らえられる。
切腹
- 「続古事談」によれば、六月十六日逮捕の際、保輔は自らの腹部を刀で傷つけ腸を引きずり出して自害を図り、翌十七日その傷がもとで獄中で没したという。
保輔逃ぐるに能はず、刀を拔きて腹を切りて、腸を引出でたりけり。檢非違使此由申して、禁獄せられにけり。此賞に、忠延、左馬醫師になされけり。保輔次の日、獄中にて死にけり。獄より取出でて、ゐて行くとて葬禮して、念佛僧具して行きければ、公家咎め仰せられて、檢非違使過狀奉りけるとぞ。
- これは記録に残る日本最古の切腹の事例とされ、武士の自殺手段としての切腹の前例となったとも言う。
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