茶臼丸
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- よく似た名前の刀剣が3本ある
茶臼丸(ちゃうすまる)
刀
行光作
長一尺三寸五分
- 角野家押形集
一、行光 無銘、代金二十枚、折紙寛永二十年極
松平志摩守殿所持(重榮)長サ一尺三寸五分、重ね中、少し厚し、庵中、反一分半餘、表連樋、裏腰ソヒヒ(添樋)
元来坂崎出羽守所持、大ひしり、小ひしり、茶臼丸、切羽貞宗と云て、四腰の内也、大ひしりは藤堂和泉守に、小ひしりは□□に有り、切羽貞宗不知、志摩(重榮)殿祖父丹後守殿右の由緒も不知して、求め被置候、當時護持知足院の先住は出羽の孫也、松平宗閑老(松平英親)に先知足院咄被申候茶臼丸の趣相知れ候、茶臼丸と云は、元は出羽茶坊主茶引き候處を茶臼共二つに切申候、右の通りに名付る
由来
- 坂崎出羽守が、茶をひいている茶坊主をこの刀で茶臼もろとも一刀両断したためという。
来歴
- 坂崎出羽守の所持。
- 坂崎出羽守は、家康の孫である千姫を奪おうとしていることが露見し、元和2年(1616年)に自害に追い込まれる。
坂崎出羽守直盛は、宇喜多忠家の長男で、宇喜多直家の甥にあたる。従弟の宇喜多秀家に仕えたが折り合いが悪く出奔死家康お預けとなる。関が原の戦いの功により石見浜田2万石、のち津和野3万石を与えられる。この時に宇喜多の名を嫌った家康から坂崎と改めるよう命じられる。大坂落城の際、千姫を助け出す。家康から千姫の身の振り方を依頼され、公家との間を周旋しているところで本多忠刻への輿入れが決まってしまい面目を潰されたために千姫強奪を計画したという。1616年10月10日夜遅く、江戸市中に騒動起これり、こは出羽殿と呼ばれし武士が、皇帝(将軍秀忠)の女(千姫)が、明日新夫に嫁せんとするを、途に奪うべしと広言せしに依りてなり。(略)是に於いて皇帝は兵士一万人余人を以て其邸を囲ましめ、家臣にして穏かに主君を引き渡さば凡十九歳なる長子に領土相続を許さんと告げしに、父は之を聞くや、自ら手を下して其子を殺せり。されど家臣などは後に主君を殺して首級を邸外の人に渡し、其条件として、彼等の生命を助け、領土を他の子に遺はさん事を求めしが、風評によれば、皇帝は之を諾せし由なり。
(イギリス商館長リチャード・コックス日記)
- 本刀は、由来を知らないまま豊前竜王城主(のち豊後高田藩主)であった松平丹後守重直が入手する。
松平重直は信濃松本藩主小笠原秀政の四男。母の登久姫は岡崎信康(家康嫡男)の長女。祖母は信長長女の五徳姫。重直の兄弟には、豊前小倉初代藩主となった小笠原忠真、蜂須賀至鎮正室の万姫(敬台院)や細川忠利正室となった千代姫(保寿院)らがいる。
秀忠の命により能見松平家松平重忠の娘婿となる。出羽上山藩第2代藩主、摂津三田藩主、豊後竜王藩主、豊後高田藩初代藩主。寛永3年(1626年)に家督を継ぎ、寛永19年(1643年)没。
- 重直の子の松平英親の代に、護持院(将軍家綱の時に湯島の知足院が移された)の住職が知らせたために初めて由来が判明したという。先代の住職が出羽守の孫に当たる人物であったという。
松平宗閑老(松平英親)に先知足院咄被申候茶臼丸の趣相知れ候
小笠原秀政─┬小笠原忠脩 ├小笠原忠真 ├万姫(蜂須賀至鎮正室) ├千代姫(細川忠利正室) ├小笠原忠知 └松平重直 ├───┬松平英親(宗閑)──松平重栄 松平重忠娘 ├一柳直興正室 └娘 │ 織田長益有楽斎──織田長政
松平英親は、父重直の死に伴い寛永20年(1643年)正月に家督を継ぎ、正保2年(1645年)高田から杵築3万2000石に移封されている。元禄5年(1692年)12月4日、長男の重栄に家督を譲って隠居し、宝永3年(1706年)3月10日に82歳で死去した。つまり、護持院住職が由来を教えたのは、寛永20年(1643年)~元禄5年(1692年)の間となる。
- 角野寿見による「角野家押形集」が編纂されたときには、重直の孫の松平志摩守重栄の所持となっていた。
志摩守重栄は豊後杵築藩の第2代藩主。元禄5年(1692年)に家督を継ぎ、奏者番、寺社奉行を務める。宝永5年(1708年)に隠居。
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