物干し竿
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物干し竿(ものほしざお)
- 巌流開祖、佐々木小次郎が好んで佩いたと言われる刀。
- 本朝武芸小伝によれば三尺余り(90cm以上)の太刀といい、一説に備前長船長光の子、二代目将監長光の作とされる。
巌流は三尺餘の白刄を手にして来る
巌流(佐々木小次郎のこと)は物干さほと名付し三尺餘の大刀を以て勝負をしたりと、爾今船嶋に巌流の墓あり
概要
- 「巖流島の決闘」の名で知られる、宮本武蔵と佐々木小次郎の「舟島」での決闘は、慶長17年(1612年)に行われたという。
武蔵の「二天記」によれば決闘は慶長17年(1612年)5月13日と言い、また福岡藩の二天一流師範である立花峯均の「丹治峯均筆記」では武蔵19歳の時=慶長7年(1602年)だとする。しかし現在では武蔵の生年自体が諸説あり、結局決闘がいつ行われたのかは不明となっている。以下では「二天記」に従うものとする。
- 宮本武蔵の養子宮本伊織は、武蔵の菩提を弔うため承応3年(1654年)豊前国小倉藩手向山山頂に顕彰碑文を建立した。
- これには決闘の次第が描かれており、そこで「物干し竿」が登場する。
爰に兵術の達人、岩流と名のる有り。彼と雌雄を決せんことを求む。岩流云く、真剣を以て雌雄を決せんことを請ふ。武蔵対へて云く、汝は白刃を揮ひて其の妙を尽くせ。吾は木戟を提げて此の秘を顕はさんと。堅く漆約を結ぶ。長門と豊前との際、海中に嶋有り。舟嶋と謂ふ。両雄、同時に相会す。岩流、三尺の白刃を手にして来たり、命を顧みずして術を尽くす。武蔵、木刃の一撃を以て之を殺す。電光も猶遅し。故に俗、舟嶋を改めて岩流嶋と謂ふ。
この手向山の碑文は北九州市の手向山に現存する。「小倉碑文」として知られる。
- ただし決闘の60年後に、豊前国の細川家小倉藩家老門司城代の沼田延元の家人が1672年に記した文書「沼田家記」によると、武蔵は決闘で小次郎を殺すに及ばず、敗北した小次郎はしばらく後に息を吹き返し、その後武蔵の弟子らに殺されたとある。
- これは宮本伊織の碑文と矛盾している。また、小次郎の弟子らも決闘で負けたことを恨み武蔵を襲撃するが、沼田の助けにより武蔵は無事落ち延びたとある。
佐々木小次郎
- 佐々木小次郎は、安土桃山時代から江戸時代初期の剣客。
- 号は岩流(巖流、岸流、岸柳、岩龍とも)。
- 宮本武蔵との巌流島での決闘で知られる。
ただしそもそも小次郎の姓すらよくわかっておらず、一番成立が早い碑文では岩流(巖流)とのみ書かれ姓はない。寛文12年(1672年)成立の小倉藩門司城代・沼田延元の家人による「沼田家記」では「小次郎」とのみ書かれる。さらに決闘から既に164年後の安永5年(1776年)成立の「二天記」の本文でも「岩流小次郎」だが、その注釈でようやく「佐々木小次郎」と書かれる。
しかし「二天記」が準拠したとされる「武公伝」では「巌流小次良」「巌流小次郎」となっているため、佐々木姓がどこから出てきたのかは不明。元文2年(1737年)に上演された狂言の「敵討巖流島」で「佐々木巖流」となっており、二天記もこれに倣ったものだという指摘もある。
- 生年は不詳。
- 佐々木小次郎は、中条流富田勢源、あるいは富田勢源門下の鐘捲流の鐘捲自斎の弟子とされている。
- 初め、安芸国の毛利氏に仕える。
- のち武者修業のため諸国を遍歴し、「燕返し」の剣法を案出、「岩流」と呼ばれる流派を創始。小倉藩の剣術師範となる。
- 慶長17年(1612年)、この小次郎は剣豪宮本武蔵に挑戦している。九州小倉の「舟島」において決闘し、武蔵に敗れて死んだ。決闘時、武蔵は60歳近く、小次郎は20代であったとされる。
舟島(ふなしま)は、こののち小次郎の号を取って「巖流島」と呼ばれるようになり、勝負は「巖流島の決闘」と呼ばれるようになった。
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