油屋肩衝
油屋肩衝
Table of Contents |
|
由来
- 堺の町人油屋所持にちなむ。
来歴
油屋常言
- 元は堺の町人油屋常言の所持。
- のち子の常祐へと伝わる。
油屋常祐、泉州堺の人にて利休弟子也、肩衝所持して世に油屋肩衝と呼ぶ
永禄十丁卯年五月二日朝 油屋常祐會
宗及 宗久
道設 宗和
一、風爐 長板 五徳 スチ釜
一、床 芙蓉の繪かけて
一、肩ツキ 四方盆にすへて
一、晴元 細川天目 カズの臺
一、水指 手桶
一、茶𣏐 アサチ竹
一、水下 合子永禄十二年巳正月九日朝 油屋常祐會
了雲 宗及
爐 釣物 五徳 茶候時常祐出て被立候
床 かたつき四方盆に
袋 白地金襴
曜變天目 數臺ニ 水指 手桶
合子水下 薄カウライ茶碗元亀三年後正月廿五日朝 油屋常祐會
醫師宗珠 宗及 ケチウ慶祐 市琢 宗閑
一、床 カタツキ 四方盆ニ 一釣物 風爐 後ニ手桶曜變ノ天目
常悦茶ヲ被立候
右カタツキ再見ナリ。天正十五年三月二日朝 堺にて
油屋常悦御會 宗言 宗湛
四畳半六尺床に、肩衝袋に入れ四方盆にすゑて云々
肩衝をば手水の間にすみをりの畳になほしたてらる
肩衝 惣高二寸七八分、口ノ廣一寸三分、肩ノ廣四分
秀吉
- 油屋から秀吉に伝わるが、献上時期については諸説ある。
- 永禄年中に常言より:「北野茄子茶入由緒書」
油屋浄言より秀吉公上、三百貫、北野茄子をたまふ、
北野茄子茶入と申者、永禄年中太閤様へ從堺住油屋常言油屋肩衝と申茶入被指上候時、爲其代此北野茄子并鳥目三百貫文油屋常言に被下
- 慶長の頃:「雲州寶物傳來書」
- 常春の代に献上:「利休百會解」
常春の世に秀吉に献じ、其代として北野茄子を賜ふ、其後妙國寺へ寄附し、諸堂建立の爲め、寛永年中阿知子宗内買求めて、世に出るとなん。
- ただし宗湛日記に天正15年(1587年)の茶会記がある以上、この後であることは確実であると思われる。
- また「茶道具之記」の"天正十三 二月上旬注之 秀吉様御物分"にも油屋肩衝は記されていない。いっぽう同記の"天正三年名物記部 堺之分"の油屋常祐には肩衝(油屋肩衝)が記されている。
福島正則
- 秀吉はこれを福島正則に与えている。
福島正利→将軍家
- 子の福島正利に伝わるが、寛永元年(1624年)7月5日に遺物として献上している。
福島正利正則の子市之丞寛永元年、大猷院に大光忠の刀、大森義允(藤四郎吉光)の脇差、あぶらやの茶入をたてまつる
(寛政重脩諸家譜)福島正則遺物覺 あぶらやの茶入、大みつたゝの御腰物、大もりよしみつの脇差、右將軍様、寛永元年七月五日正則判
土井利勝
- 寛永3年(1626年)11月に秀忠はこの茶入を土井利勝へと与えている。
寛永三年九月六日、二條城行幸の時、利勝諸事を奉行す、禁裏より薫物十合、中宮より繻珍廿巻及薫物を賜ふ、其後大猷院殿本城に召され、油屋肩衝の茶入を賜ふ。六年八月二十八日、大猷院其邸に臨む、九月二日又渡御、後台徳院大猷院渡御あり、利勝先にたもふ所の油屋肩衝の茶入を以て饗し奉る。
(寛政重脩諸家譜)
河村瑞賢
- 土井家より河村瑞賢へと、この茶入及び蔓付茶入が二万両で譲渡される。
油屋肩衝 福島左衛門太夫所持、故あり河村瑞軒へ來る、卯年に於て冬木小平次所持。
油屋肩衝 昔中頃土井大炊頭殿御所持、代々有之、川村平太夫(河村瑞賢は通称平太夫)渡、其後冬木小平次所持。此肩衝と蔓付茶入兩種を河村瑞軒金貳萬兩質物に、土井氏より取と云ふ。蔓付唐物冬木宗五求之、名物記に出る道具なり、添盆わりさ盆添ふ。
油屋肩衝 河村瑞軒より來る
この河村瑞賢への譲渡時期はよくわからない。宝永頃と書かれているが、瑞賢は元禄12年(1699年)、82歳で死去している。
土井家は家康落胤説まである土井利勝が二代秀忠を支えて絶大な権勢を誇ったが、その子利隆に力なく、孫の代には早世者が出るなど延宝3年(1675年)には無嗣断絶の危機に立たされる。土井宗家古河藩は7万石へと減知された上、鳥羽、唐津を転々とし、ようやく古河藩に戻れたのは宗家8代土井利里のときである。恐らく減知された時期の前後に放出されたものと思われる。
冬木喜平次
- 宝永の頃に、冬木喜平次(冬木伯庵)へと譲渡される。
安永七戌年 伏甚冬木油屋肩衝、千六百兩甚兵衛へ銀三十枚
油屋肩衝 上様御覧、元堺町人油屋常祐所持、慶長の頃秀吉に差上る、其後御物となる、寛永の頃土井大炊頭利勝拝領す、寶永の頃江戸町人冬木小平次御調金の替りに戴き、其後天明三年私方より御取次、御買上に成る。替袋油屋切と申す、至て珍敷切に御座候。添盆若狭盆、此盆當時至て數少なく、唐土元朝の頃日本へ渡りし若州へ來船持渡る、本朝弘安の頃に有之か、添文利休文。
(伏見屋手控)
冬木喜平次は江戸の豪商。上田宗五(冬木伯庵)のこと。
豪商冬木屋は上野出身の上田直次が興した材木問屋で、東京都江東区冬木の町名は、冬木屋三代目冬木屋弥平次が、一族の上田屋重兵衛とともに材木置場として幕府から買い取ったことに由来する。
松平不昧
- 天明3年(1783年)、これを一千五百両で松平不昧が買い上げ、以後雲州松平家に伝来する。
其後天明三年私方より御取次、御買上に成る。
寶物之部
一、圓悟禅師墨跡
一、油屋肩衝 漢
右兩品者天下寶物也、天下名物雖多、此二種無比、子々孫々格別大切可致者也。
文化八年未九月 不昧
出 羽 守 殿圓悟、油屋御往來に國許へ駕籠に入候て持参候へども道中無覺束候間、以來は大崎藏に入置可被申候事
不昧
齋 恒 殿
- 不昧は、この油屋肩衝と圓悟墨跡を一番の宝物とし、参覲の折にも駕籠に納めて運ぶほどであったという。隠居後は大崎の別邸に納め、終生離さなかったという。
- ある人が、もし将軍家がこれを望んだとしたらどうするかと問うた所、徳川宗家の所望とあらば辞するところではないが、代わりに一国を拝領したいといったという。
- 更に、この油屋肩衝はこの後雲州松平家に伝来したが、代々の家老も一代に一度だけしか拝見を許されなかったという。
- 大正頃まで伯爵松平直亮氏蔵。
出雲松江藩の10代(最後)藩主松平定安の三男。明治17年(1884年)叙爵。
- 松平不昧の蒐集した名物は、売り払われることもなく、明治維新を迎えた。
- これらは赤坂本邸、大崎別邸に分けて納められていたが、維新後には松江宝蔵と四谷元町にあった邸の倉庫に保存された。
- 大正5年(1916年)4月、伯爵松平直亮は不昧公百年回忌大茶会を元町の自邸で開いている。その後大正12年(1923年)に関東大震災が起こると、出入り業者に入札させていたが、やがて個人取引で処分するようになったという。
- 大正14年(1925年)~翌15年にかけて、雲州松平家の宝物が売却された。さらに昭和2年(1927年)~昭和4年(1929年)にかけても売却されているが、この時にも「油屋肩衝」は売却されていない。
畠山一清
- 荏原製作所の創立者として知られる実業家畠山一清(号即翁)が買い入れる。
伯爵松平直亮は昭和15年(1940年)10月没。松平直國氏が伯爵を襲爵している。恐らくこの頃に手放されたものと思われる。
- 昭和53年(1978年)6月15日、重要文化財指定。
唐物肩衝茶入 銘 油屋
- 現在は、畠山一清が自ら設計した公益財団法人畠山記念館の所蔵。
東京都港区白金台2丁目にある畠山記念館の地は、元は寛文9年(1669年)に薩摩藩主島津家が幕府より拝領した土地で、島津家ではここに別邸を築いた。明治後に薩摩出身の寺島宗則の屋敷となり、昭和12年(1937年)に畠山一清が買い取った。
Amazonプライム会員無料体験