水田長光


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 水田長光(みずたながみつ)


長光

  • 「刀銘并序」  安東守約

    太閤秀吉将軍伐朝鮮、我君宗茂公将兵樹大功及相戰、風斗就澄被圍數衆卽挺刀、五人及六人刀折以腰刀殪之、公褒章賜寶刀號水田長光。當其與番舩戰、敵餘舩去、自小舩斬其腰身半以上游水六七間、其利如吹毛劍、見人驚目

    安東守約とは柳川藩の儒学者安東省菴のこと。

 来歴

  • 筑後梁川城主、立花宗茂が所持していたという。
    立花宗茂長光といえば、もう1本、天正9(1581)年秋に実父である高橋紹運が宗茂を戸次道雪のもとに養子に出す際に与えたという剣が高名。「剣 銘 長光」こちらは現存し、重要文化財指定。立花宗茂の項参照
  • 朝鮮の役で宗茂の家臣、風斗就澄という者が敵十余人に囲まれ、五人を斬り倒したところで刀が折れてしまったため脇差しで戦っていた。
  • それを見た宗茂が、風斗に本刀「水田長光」を与えたという。
  • のち船上での戦があった際、一人の敵が海へ飛び込んだのを見た風斗が、船の上からその腰を払ったところ、その敵は6・7間ほど泳いだ後に二つになって死んだという。帰国後に死体を試し切りしたところ、一撃で三ツ胴を落としたという。
  • 関ヶ原の戦いで立花家は西軍に属し、戦後改易となった。
  • 家臣団も散り散りとなり、風斗が摂津の片田舎に隠棲していると聞き及んだ藤堂高虎が使いを送り、この長光の刀を我に譲れば千石で召し抱えると申し入れるが、風斗は「主君手づから賜ったものであるのでたとえ一万石下さろうといえどもお断わりいたす」と返答したという。※一柳氏も同様の誘いをしたという。

    向若貪禄、奉此刀於藤堂一柳兩公、

  • その後、元和6年(1620年)に立花宗茂は柳川にて10万石を領し、再度大名への復帰を果たす。その噂を聞いた風斗が江戸に赴き、宗茂に拝謁した。
  • 宗茂が「あの長光はいまでも所持しているか」と問うたのに対して、風斗は取り出して見せ、「我、利欲のために此の刀を失わば再び今日の拝顔も成るまじ」といって泣いたという。
  • 風斗家ではこれを相伝し、就澄の子就尚、孫の就貞、曾孫就秀、玄孫重澄へと伝わった。
  • 元禄11年(1689年)9月6日、江戸の大火で立花家の蔵刀も焼ける。風斗就澄の曾孫である風斗就秀は、それを聞き藩主にこの「水田長光」の献上を願い出るが、子孫に伝えよといって受け取らなかったという。そこで就秀は、同藩の儒者安東省菴に依頼し、「水田長光記」を書いてもらったという。
    当時、柳川藩主は第3代立花鑑虎。
     元禄11年の火事は「勅額火事」、「元禄江戸大火」、「中堂火事」とも言う。この年の8月に上野寛永寺の根本中堂ほかが落成し、9月3日に落慶法要が執り行われた。そして6日は東山天皇に願っていた「瑠璃殿」の宸筆が彫り込まれた「勅額」が京都から到着した日であった。

    今茲元禄十一年九月六日、江戸火災、聞君之寶庫皆罹其災、就秀請獻之君、君曰、汝之志誠可、嘉焉、雖然、此是有由緒之物、世所希也、宜寶藏傳之子孫矣、就秀感荷、永矢弗譌、乞銘於予、予不獲辭、略叙其事、銘曰、物華■寶、賜辱君恩、水田長光、光-傳子孫、

  • 明治に至り、谷干城が所持した。

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