樊噲一文字
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樊噲一文字(はんかいいちもんじ)
作吉岡一文字
銘 一
- 目釘孔3個
- 植村新六家存が織田信長より拝領した一文字。
植村家存は植村氏明の子。初名栄政、家康より偏諱を受けて家政、後に家存と名乗る。出羽守。なお孫で大和高取藩の初代藩主の新六郎(従五位下・志摩守、出羽守)も家政を諱としている。
父の植村氏明は松平家3代(清康・広忠・家康)に仕えた人物。天文21年(1552年)、尾張国沓掛での織田家との戦いで討死している。
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由来
- 植村家存は天文18年(1549年)9歳から家康に仕え、天文21年(1552年)に父が死ぬと家督を継いだ。
- 永禄5年(1562年)清洲同盟の際に家康の警護を務め清州城へ同行し、佩刀のまま書院に入ろうとすると織田方の警護のものに非礼であろうと止められてしまう。これに対して「我は植村出羽守なり。主君の刀を持って参ったのを、そのように大袈裟に咎めてくれるな」と荒々しく言い放った。
- それを耳にした織田信長から、前漢の樊噲(鴻門の会で項羽に殺されかけた劉邦を守り危機から救った武将)に似ていると賞賛された。会見後、織田信長は家存に二振りの行光の太刀を与えたという。
来歴
- 信長が植村家存に与えたのは行光ではなく吉岡一文字であるという。
一、刀、吉岡一文字 笹剪の白鞘
(慶政私記)
信長所持の際には「笹剪」と号したという。
- 元は植村家の重宝、ともいう。
吉岡一文字の刀は。植村刑部少輔家包が祖先出羽守家政が。そのかみ二世の御かたきをうちとゞめし天文五年阿部彌七□松平清康、同十四年岩松八彌傷松平廣忠刀なるよしきこしめされ。
引用文中、小文字の前半は天文4年(1535年)の森山崩れの事を言っており、叔父の松平信定を征伐するため尾張国守山に着陣していた松平清康(家康祖父)が、阿部正豊により誤って殺害された。その後阿部正豊は本陣にいた植村氏明に即座に斬殺されている。
後者は寝所にいた広忠(家康父)を岩松八弥が襲い、岩松八弥は植村新六郎家政に捕らえられ首を斬られ、この功により植村は感状を与えられたという。
なお清康・広忠の両者ともに死因には諸説あるが、実紀では上記のように記しており当時はそのように信じられていたということである。
矛盾
- 上記伝来には2つの矛盾がある。
- 岩松八弥を斬った人物
天文10年(1541年)の時点で9歳の植村家存が岩松八弥を斬れるとは思えないため、両方の逸話ともに家存の父である植村氏明のものではないかと思われる。植村氏明は天文21年(1552年)没。 - 信長拝領なのか、それ以前から植村家重宝か
永禄5年(1562年)に信長が植村家存に贈った吉岡一文字が本刀であるなら、それは過去の清康・広忠の事件の際には使用できない。
- いずれの矛盾点も、何が正しいかはよくわからない。実紀を信用するならば一文字は植村氏明の頃から植村家伝来のもので、信長から拝領したのは行光ではないかと思われる。
吉宗期
- 享保19年(1734年)将軍吉宗の時には、本刀は本多忠良の家に伝わっており、また植村家包(大和高取藩の5代藩主)の家には本多忠勝が佩いた了戒の刀が伝わっていたという。※つまり入れ違いに伝来していた。
植村氏義─┬植村氏明──家存──家次──家政─┬家俊 │ ├八助 │ ├家貞─┬政成──家敬─┬高堅 │ │ ├家言 └家道──家久 │ │ ├政明 │ │ └正澄 │ └政春─┬政勝 │ └政広──家包 └小夜 ├──平八郎忠勝─┬忠政──政朝──政長──忠国──忠孝 本多忠高 └忠朝──政勝──忠英──忠良
本多忠良は忠勝系本多家宗家8代で、越後村上藩2代藩主、三河刈谷藩主、下総古河藩初代藩主となった人物。側用人、老中を務めた。
植村氏明の姉妹小夜が、本多忠勝の生母という関係。忠勝は、植村氏明の甥、植村家存の従兄弟ということになる。
恐らくこの関係で佩刀を交換したのではないかと思われる。忠勝は天文17年(1548年)生まれ。父の本多忠高は天文18年(1549年)3月に第三次安城合戦で死んでいる。
- それを聞いた吉宗は、互いに交換し、重宝として相伝すべしと命じたという。
(享保19年5月)廿七日本多中務大輔忠良が家に藏せし吉岡一文字の刀は。植村刑部少輔家包が祖先出羽守家政(家存)が。そのかみ二世の御かたきをうちとゞめし天文五年阿部彌七□松平清康、同十四年岩松八彌傷松平廣忠刀なるよしきこしめされ。けふ命ありて。家包がもとへをくらしめらる。また刑部少輔家包が家には。忠良が曩祖中務大輔忠勝が佩し了戒の刀。中心に忠勝の二字を嵌したるを藏せしかば。これも忠良に送るべしと仰下さる。
(徳川実紀)十九年五月廿七日家包故ありて、了戒の刀の中心に本多平八郎といへる文字を彫りたるを家蔵す。この刀おぼしめすむねありとておほやけにめされ、本多中務大輔忠良が所持する吉岡一文字笹剪といふ刀を賜ふ。これむかし先祖新六郎清康気味廣忠卿に敵對申せしものをうちとめし刀なりとぞ。
(寛政重脩諸家譜)
- その後は植村家伝来と思われる。
明治後
- 明治頃竹添進一郎の所持。
竹添進一郎は明治の外交官・漢学者。肥後国天草出身。同じ肥後出身の金工師西垣四郎に命じて拵えをつけさせ、「樊噲一文字」と呼んでいたという。外交官を辞した後に東京帝大教授となった。
次女の須磨子は講道館柔道の創始者である嘉納治五郎と結婚しており、長男(つまり竹添の外孫)は画家の竹添履信、次男は講道館3代館長の嘉納履正。
植村家の系図等にも他の刀剣については詳細に記載があるにも関わらず本刀については記載がないことから、この頃まで「樊噲一文字」の呼び名がなかったとも指摘されている。
- のち犬養木堂(犬養毅)が購入。
- 大正の初め頃、犬養が借金2万圓を片付けるために蔵刀を処分することになった時、和田維四郎に依頼した。それを「木堂先生の刀なら見るに及ばず」として40刀あまりを一括で買い入れたのが久原財閥の久原房之助であった。
- その後、陸軍中将であった山根武亮男爵が購入。昭和3年(1928年)に死んだ後、昭和11年(1936年)3月29日に売立に出され2700円で落札されている。
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