柏太刀
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柏太刀(かしわだち)
銘
- 佩表に長銘が記されている。
日光山奉納新宮御宝前□□□小田平塚入道
- この「平塚入道」については諸説あり判然としない。
- 親鸞六老僧のひとり了源:
- 常陸真壁の海老ヶ島城主の平塚山城守入道自省:
了源
- 鎌倉時代の浄土真宗の僧で、親鸞の六老僧のひとり。
- 了源は、はじめ平塚入道法求と称したという。
- この了源も出自が明らかではない。後述。
平塚自省
- 戦国末期、常陸の海老ヶ島城主。
- 平塚山城守入道自省
- 永禄7年(1564年)に常陸真壁郡山王堂で行われた野戦「山王堂の戦い」で登場する人物。
- この頃、常陸では小田城の小田氏治と、太田城の佐竹義昭の対立が激化していた。
- 当初両者ともに上杉氏についていたが、北条氏康の誘いにより小田氏が北条方に通じると、佐竹は上杉謙信(当時は上杉輝虎)に援軍を要請する。
- 永禄7年(1564年)4月、謙信は常陸国山王堂に着陣。地元の民に、この辺りで名の知れた武将を訪ねている。その時、海老ヶ島の平塚入道自省と小田四天王の菅谷・飯塚・赤松・手塚の名が挙がったという。
- その後山王堂で野戦が行われ、小田方は上杉軍の勢いに押され小田城に篭ったが、駆けつけた佐竹軍も加わると小田城は落城した。平塚入道自省はこの戦いで討ち取られたという。
了源(りょうげん)
- 鎌倉時代の浄土真宗の僧。号は空性。
- 親鸞の六老僧のひとり。
- 永仁3年(1295年)5月1日生まれ、建武2年(1336年)12月8日没。
- 興正寺4世了海の子というが諸説ある。
- 武士(家人の中間とも)の金森弥三郎が出家した。
- はじめ平塚入道法求と称し、相州大掾の高麗三社権現の別当であったという。
- 一説に、曽我十郎祐成の子祐若(すけわか)は、源実朝より平塚の荘を拝領し、河津三郎信之と名乗る。のち出家し、法名を平塚入道法求禅門と名乗ったという。のち了源と改めたという。
- 了源は焼失した興正寺を継いで7世となり再興する。後醍醐天皇より寺号を授かり「仏光寺」(真宗佛光寺派総本山)と改めた。
興正寺(興隆正法寺)は建暦二年(1212年)親鸞の開基。あるいは正中元年に山科に堂宇を建立したのが始まりともいう。
- その後伊賀国の山中で布教中に殺されたという。
- 長男の源鸞が8世を継ぐが、その死後了源の妻である了明尼(りょうみょうに)が9世を継いだ。教団の拡大文和元年(1352年)には延暦寺大衆が祇園社(八坂神社)に仏光寺の破却を命じるという事件が起きている。
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