朱器台盤
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朱器台盤(しゅきだいばん)
- 藤原氏の家宝として歴代藤氏長者に継承されてきた朱塗りの什器のこと。
- 朱器台盤は正月の大臣大饗(だいじんのだいきょう)の際に用いられ、朱器台盤の相伝儀式である「朱器台盤渡り」により、摂関家の権力の象徴として「殿下渡領」などとともに相伝されてきた。
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概要
- 「朱器・台盤」とは、宴会の際に用いられる器とテーブルのセットを指しており、いずれも朱塗りであったために朱器台盤と呼ばれるようになったという。※台盤については下部は黒塗り。
- 寛治8年(1094年)3月9日に藤原師通が関白の詔をこうむり11日に藤氏長者となった際の「朱器台盤渡り」の記事は、式次第と朱器台盤として次のように記載されている。
十一日、壬午、朝間小雨、午後天陰雨止、先参内、次参中宮御所鴨院、次参關白殿、依朱器
大盤 渡也、未時許、公卿参集之後、殿下衣冠、御出對南庇奥座、公卿在端座、(略 ※公卿ら着座)、済々参入、頃而安藝守藤有俊朝臣、爲大殿御使、相具朱器等参入、先於東中門前、令讃岐守行家朝臣申事由、次有俊朝臣昇廊上、唐櫃一合入券文書歟、小櫃一合印鎰歟、細長櫃一合納革巾、取居之後、行家朝臣次入唐櫃文覧殿下、了唐櫃小櫃行綱、孝清取之、居對南廣庇、次行家朝臣開唐櫃、重取出文書覧殿下、返給如本納了、次下家司貞則持革巾、進出南庭砌前、覧了後歸中門、次入合子長櫃等、舁出庭中、取出合子等、入長櫃盖三、下家司等衣冠、捧舁砌下立、行家朝臣進檻前取合子一、覧殿下、了又返入木蓋舁出了、先少納言惟信出中門、仰云、御牧司等如本者盛長、行綱二人也、次頭辯依召進出、隋御氣色還入、侍方又進出覧吉書是勧學院學生入院名簿云々、指文夾御覧了返給歸本路、殿下入御、人々退出、
朱器大盤物數等、
赤小唐櫃一合入券文、小櫃一合印鎰、少白長櫃一合納革波加利、入朱器例長櫃四仕丁赤狩衣以上舁之、朱大盤廿七此中八尺長二、四方六、小大盤十九、已上例夫等持也、有俊朝臣、下家司貞則衣冠、此外衣冠者兩三人相具也、藤氏長者印也、
ここで最初に取り出される「唐櫃一合入券文書歟」が「殿下渡領」の記載された文書である。
はじまり
- もとは藤原冬嗣(775-826)が勧学院に納めた物とされ、以後代々勧学院の別当を兼務した藤氏長者が所持していたとされる。
- 正月大饗での利用例としては、永延元年(987年)正月19日に使用した例がもっとも早いものとされている。
早朝從内罷出、参攝政殿、[今日]大饗、用朱器・大盤、
(小右記)
- これは前年寛和2年(986年)の寛和の変を受けて6月28日に摂政・藤氏長者となった藤原兼家(藤原師輔の三男で、道長らの父)が、翌永延元年(987年)正月に初めて行った正月大饗である。
寛和の変は、寛和2年(986年)6月23日に花山天皇が退位・出家した事件である。これにより皇太子・懐仁親王(後の一条天皇)が即位し、外祖父であった右大臣・藤原兼家は摂政に就任した。
詳細については、下記論文中の「朱器大饗・朱器節供・朱器台盤渡り事例一覧表」を参照のこと。
なお同論文を参照していると思われるWikipediaの「朱器台盤」の項では、「『小右記』には寛和2年(982年)の正月大饗で朱器台盤を用いた記述がある[4]」としているが、摂政任官と正月大饗とを混同しているのではないかと思われる。また寛和2年は西暦986年である。
藤氏長者の象徴
- こうして正月大饗で用いられることが定例化した朱器台盤は、平安中期には代替わりの際に受け継がれる象徴的行為「朱器台盤渡り」として行なわれるようになった。
- この後、12世紀にかけて朱器を用いた正月大饗は継続的に行なわれ、建永元年(1206年)の九条良経によるものが最後となりその後は確認できなくなる。ただし、相伝儀式である「朱器台盤渡り」についてはその後も継続されており、こちらは正応2年(1289年)4月21日の近衛家基によるものを最後とする。
参考
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