朝霜次直
朝霜次直(あさしもつぐなお)
刀
磨上額銘 備中國住次直
金象嵌 毛利元康所持、依此刀利埋忠磨上之
二尺三寸一分
- 磨上のため「備中國住次直」の六文字が短冊銘(額銘)となっている。
- 鎺は埋忠寿斎によるもので、台尻に「寿斎」と入る。
由来
- 加藤千蔭(橘千蔭)の歌の短冊がついていることから。
ぬけばかる 朝霜寒し 真金吹く 吉備の方しが うてる此たち
加藤千蔭は、江戸享保から文化ごろの国学者・歌人・書家。書は千蔭流として明治期に人気があり中島歌子や弟子の樋口一葉も千蔭流の書を学んだ。
- 尼子氏の月山富田城攻略の際に素晴らしい切れ味を示したという。
来歴
- 毛利家臣福原家に伝来したが、のち毛利宗家に献上された。
- 昭和10年(1935年)8月21日に重要美術品指定、昭和10年(1935年)8月3日重要美術品認定。認定時所持者毛利元昭氏。毛利元昭公爵(毛利宗家の29代当主)旧蔵。
刀 額銘 備中國住次直/毛利元康ノ所持銘アリ。刃長二尺三寸五分。
- 昭和15年(1940年)の「紀元二千六百年奉祝名宝日本刀展覧会」では毛利元道氏。
刀 額銘 備中國住次直/毛利元康所持 東京公爵毛利元道
長さ二尺三寸○五厘(大磨上) 反り五分 元幅一寸○五厘
茎大磨上、表に「備中國住次直」と額銘あり、さらの其の上に「毛利元康所持」裏に「依此刀利埋忠磨上之」と金象嵌銘がある。
- 昭和18年(1943年)の陸軍軍刀展覧會でも出品されている。公爵毛利元道所持。
- 昭和36年(1961年)11月の日本刀剣保存会秋季特別会では神崎正義氏の所持となっている。
- 昭和41年(1966年)でも神崎正義氏の所持。
毛利元康(末次元康)
末次元康
従五位下、兵部大輔、大蔵大輔
少輔七郎
- 毛利元康は末次元康。
- 毛利元就の八男で、毛利隆元や吉川元春、小早川隆景らの弟にあたる人物。
- 出雲国末次城を与えられたことから末次を称した。
- 天正4年(1578年)に兄・吉川元春に従い、因幡国宮石城を攻め初陣の功名をあげた。
- 天正13年(1585年)、毛利氏が四国攻めに参加した隙に南条直秀に伯耆国河原山城を奪われた際には、同城を奪還し戦功を讃えられた。同年、急死した同母兄の毛利元秋の遺領を相続して出雲国月山富田城主となった。
- 文禄元年(1592年)から始まる文禄・慶長の役では毛利輝元の名代として出陣し、碧蹄館の戦いでは明軍に攻め込み敵兵1000人余りを打ち取って勝利の発端を作るなど大きな戦功を立て、秀吉から「実に英雄豪傑」の感状を与えられている。
- 文禄4年(1595年)には従五位下に任じられ、豊臣姓を与えらた。
- 慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いでは、伏見城攻撃、および大津城の戦いに参加している。9月15日には城主京極高次を降伏させるが、この日は関ヶ原の本戦当日であり、結局、本戦には間に合わなかった。主力の敗北を伝え聞いた元康らは、大坂城に戻り抗戦の準備を進めたが、輝元の意向により、大坂城を退去して帰国した。
- 戦後は毛利氏の減封により長門国厚狭郡に10,500石を与えられ、子孫は長州藩一門家老
厚狭毛利 家となった。
- 慶長6年(1601年)正月13日、大坂木津の毛利宿陣で病死した。享年42。
- 法名洞玄寺殿石心玄也大居士。
刀剣
- 刀
- 磨上額銘 備中國住次直/金象嵌 毛利元康所持、依此刀利埋忠磨上之。刃長二尺三寸一分
- 刀
- 金象嵌銘 保昌貞吉 毛利元康所持。刃長二尺
- 脇指
- 大磨上 切付銘 依刀利埋忠磨上之/貞吉正銘也毛利元康所持。
文芸面
- 武勇に優れた元康は、文禄~慶長年間の毛利軍の主力として活動したほか、文芸面においてもその事績が残っている。
- 元康は当時の連歌の第一人者里村紹巴と深く結びつきがあり、紹巴との連歌が吉川家文書などに残っている。さらに朝鮮出兵の際にも月次の連歌を催している。
- これらの多くが、現在毛利報徳会所蔵となっており、毛利博物館で展示されている。
- 八代集
- 岩山戸部尚書筆外題八枚青蓮院尊眞親王御筆 奥書天正八年法眼紹巴筆 毛利元康所持。高野山。
古今和歌集紹巴奥書
此八代集者、岩山尚書道賢舎弟、一筆、藝州毛利大藏大輔元康御所持也、可謂證本而已、
天正十八年孟冬上旬 法橋紹巴(花押)
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