曲淵兼光


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 曲淵兼光(まがりぶちかねみつ)

太刀
無銘兼光
三尺三寸五分

  • 差表の横手、一寸八分下ったところに切込がある。

 由来

  • 家康の家臣、曲淵(曲渕)吉景所持にちなむ。

 来歴

  • 長久手の戦いの折に、家康家臣・曲淵吉景が比類なき戦いぶりをしたため、その功をもって拝領したという。
    • 一説に姉川の戦いでの出来事とも伝わるが、その頃曲淵吉景はまだ武田家臣と思われる。
  • その後、尾張徳川家の家老竹腰兵部少輔が手に入れ、代々同家に伝わったといいう。
  • 昭和9年(1934年)10月に行われた某家所蔵刀剣入札において、1千円で落札されている。ただしこのときの長は2尺3寸1分となっている。

    刀 無銘(曲淵兼光) 二尺三寸一分 一千円

  • この某家とは枢密顧問官を務めた水町袈裟六である。




 曲淵吉景(まがりぶち よしかげ)

 曲淵氏

  • 曲淵氏は武田家の家臣。
  • 現在の山梨県中巨摩郡昭和町押越は、かつて曲淵と呼ばれ、曲淵氏はここに屋敷を構えた。のち武川谷に移住、武川衆として武田氏に仕えた。
  • 曲淵氏は信玄の被官でありながら板垣信方、のち山形三郎兵衛の「同心」でもあった。

 曲淵庄左衛門

  • 曲淵吉景は庄左衛門と称した。
  • 武田信玄・勝頼親子に仕え、度々の武功を上げたという。同心では広瀬郷右衛門、三科伝右衛門などと先鋒を務め、三遠両国へも度々出陣し、徳川方でも名を知られたという。
    • その反面、甲陽軍鑑によると庄左衛門は些細な事でも訴え出ることが多く、数々の揉め事を起こしたとも伝える。

 武田滅亡後

  • 武田氏滅亡後、徳川家康が武田旧臣を招いた際に、これら広瀬、三科と共に曲淵吉景も家康に仕えた。
  • 長久手の戦いでは、武田家を倣った井伊の赤備え部隊が活躍したと伝わり、この際に拝領したものと思われる。

 氏郷に所望された逸話

  • のち家康が江戸に入部する際、蒲生氏郷が隣接する会津を領し入部することになった。
  • 氏郷が家康の元を訪れ、「隣の誼で今後は何事も隔意なく申し合わせを願いたい」と挨拶をすると、家康も「こちらからもぜひお願いしたい。万事ご不自由ならばなんでもご所望あれ」と返したという。
  • 氏郷は「先刻、玄関を登り座敷へまかり通る際に、並み居る御家臣の中に色黒く背の高き老人が朱鞘の刀をさしていた。あれはいかなる者なりや」と尋ねたところ、家康が「あの老人は信玄に仕えて数々の武功を挙げた曲淵大学と申すものでござる」と答えた。
  • そこで、氏郷が「曲淵と申すもの、それがしも兼ねがね聞き及んだ剛の者です。これから奥州会津へ下る際に、あのような名高い老功の武士を拙者の馬の先に立てて入国すればさぞあっぱれな壮観となりましょう。彼の者、それがしに賜ることはできないか」と曲淵をねだったところ、家康は「他のことならばご所望を断らないところだが、あの曲淵と申す老人は信玄も秘蔵せし、我らも常々秘蔵し、床机近く召し仕えるものなれば片時も離しがたきものなり」といい、曲淵だけは御免被りたいと拒んだという。
  • その後曲淵吉景は70歳を過ぎて存生しており、大坂の役にも出陣したという。

 曲淵吉景の子孫

 曲淵景衡

  • 子孫は旗本となり、吉景から5代目にあたる曲淵景衡は徳川家宣の小姓から、従五位下・下野守となり、常陸国・三河国を合わせて1650石を知行している。さらに享保元年には寄合から小普請支配となり、享保10年10月18日から享保12年まで、甲府勤番の支配役(追手組)となっている。
  • この時、先祖吉景の生地へと訪れた曲淵景衡は、曲淵吉景の屋敷跡に建てられた本妙寺に、「血染めの旗」と呼ばれる旗指物を奉納したという。この旗は、願書とともに今も本妙寺に現存する。

 曲淵景漸

  • さらにその曲淵景衡の子、曲淵景漸は明和2年(1765年)、41歳で大坂西町奉行に抜擢され、甲斐守に叙任される。明和6年(1769年)に江戸北町奉行に就任し、約18年間に渡って奉行職を務めて江戸の統治に尽力、この間起こった田沼意知刃傷事件を裁定し、犯人である佐野政言を取り押さえなかった若年寄や目付らに出仕停止などの処分を下した。
  • 曲淵は根岸鎮衛と伯仲する当時の名奉行として、庶民の人気が高かった。また明和8年(1771年)3月4日に、小塚原の刑場において罪人の腑分け(解剖)を行い、その前日には「明日、小塚原で刑死人の腑分けをするから見分したければ来い」という通知を江戸の医師に伝令した。杉田玄白と前野良沢はこの知らせで刑死人の内臓を実見することができ、医学の発展に貢献している。
  • しかし、天明6年(1786年)に天明の大飢饉と凶作によって米価が高騰して深刻な米不足が起こった際には景漸を頼って押しかけてきた町人達と問答している内に激昂してしまい、その請願を一蹴したばかりか、「昔は米が払底していた時は犬を食った。犬1匹なら7貫文程度で買える。米がないなら犬を食え」と放言し、その舌禍が町人の怒りの導火線に火を付け大規模な打ちこわしに発展してしまっている。天明7年(1787年)、その瑕疵を咎められ奉行を罷免、西ノ丸留守居に降格させられた。
  • 後に松平定信が老中に就任すると経済に通暁している知識を買われて勘定奉行として抜擢され、再度幕政に参画。棄捐令の法案作成にも携わり、定信失脚後まで務めたが、寛政8年(1796年)、72歳の時に致仕を願い出て翌年辞任した。

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