明治以降の改元


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 明治以降の改元

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 一世一元の制

  • 新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)に明治へと改元される際、明治政府は明治元年とするとともに、一世一元の詔で天皇一代につき一元号とする一世一元の制を定めた。

    詔書
    詔體太乙而登位膺景命以改元洵聖代之典型而萬世之標準也朕雖否德幸賴 祖宗之靈祇承鴻緖躬親萬機之政乃改元欲與海內億兆更始一新其改慶應四年爲明治元年自今以後革易舊制一世一元以爲永式主者施行
    〔読み下し文〕
    太乙を体して位に登り、景命を膺けて以て元を改む。洵に聖代の典型にして、万世の標準なり。朕、否徳と雖も、幸に祖宗の霊に頼り、祇みて鴻緒を承け、躬万機の政を親す。乃ち元を改めて、海内の億兆と与に、更始一新せむと欲す。其れ慶応四年を改めて、明治元年と為す。今より以後、旧制を革易し、一世一元、以て永式と為す。主者施行せよ。

      
    明治元年九月八日
    (明治元年九月八日行政官布告)

    今般 御卽位御大禮被爲濟先例之通被爲改年號候就テハ是迄吉凶之象兆ニ隨ヒ屢改號有之候得共自今 御一代一號ニ被定候依之改慶應四年可爲明治元年旨被 仰出候事
      九月     行政官

    以手紙啓上候然者今般我國年號明治ト改元有之以來一代一號相定候趣此段可得御意如此御座候以上
      九月十八日    東久世中將
         各國公使閣下

    「改慶應四年爲明治元年」(慶応4年を改めて明治元年と為す)」とあるため、慶応4年1月1日に遡って適用された。法的には慶応4年1月1日(新暦1868年1月25日)より明治元年となる。

  • 第二次世界大戦後に制定された日本国憲法、および1947年(昭和22年)施行の皇室典範では元号の規定が明記されておらず、同年5月3日を以って元号の法的根拠は消失した。
  • その後も元号は(法的根拠なく)慣例として用いられていたが、昭和天皇の高齢化に伴い元号法制化を求める声が高まっていった。国会でも議論が行われた結果、1979年(昭和54年)6月6日には「元号法」が成立した。

    1 元号は、政令で定める。
    2 元号は、皇位の継承があつた場合に限り改める。
     
       附 則
    1 この法律は、公布の日〈昭和54年6月12日〉から施行する。
    2 昭和の元号は、本則第一項の規定に基づき定められたものとする。
    (昭和54年法律43号)

  • この元号法2項の定めにより、現在も一世一元の制が継続している。

 明治改元

  • この際、松平慶永(春嶽)に新元号が委ねられ、いくつかの案を出した上で、明治天皇がくじ引きで明治を選んだという。
  • 典拠は、『易経』の「聖人南面而聴天下、嚮明而治」より。
  • 「聖人南面して天下を聴き、明に嚮(むか)ひて治む」というこの言葉は、過去の改元の際に江戸時代だけで8回、計10回(「正長」「長享」「慶安」「承応」「天和」「正徳」「元文」「嘉永」「文久」「元治」改元時)候補として勘案されているが、通算11度目にして採用された。
  • 岩倉具視が松平慶永に命じ、菅原家から上がった佳なる勘文を籤にして、宮中賢所で天皇が自ら抽選した。聖人が北極星のように顔を南に向けてとどまることを知れば、天下は明るい方向に向かって治まるという意味である。
  • 旧皇室典範での規定

    第十二條 踐祚ノ後元號ヲ建テ一世ノ間ニ再ヒ改メサルコト明治元年ノ定制ニ從フ
    (旧皇室典範)

 大正改元

  • 1912年(明治45年)7月30日に明治天皇が崩御すると、皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)が践祚したため、改元の詔書を公布、即日施行して、同日は大正元年7月30日となった。

    朕菲德ヲ以テ大統ヲ承ケ祖宗ノ威靈ニ誥ケテ萬機ノ政ヲ行フ茲ニ先帝ノ定制ニ遵ヒ明治四十五年七月三十日以後ヲ改メテ大正元年ト爲ス主者施行セヨ(以下略)
    (大正改元の詔書)

  • 典拠は、『易経』彖伝・臨卦の「大亨以正、天之道也」(大いに亨(とほ)りて以て正しきは、天の道なり)から。
  • 「大正」は、過去に4回(「元弘」「承応」「万治」「貞享」改元時)候補に上がったが、5回目で採用された。
  • なお大正天皇実録によれば元号案として「大正」「天興」「興化」「永安」「乾徳」「昭徳」の案があったが、最終案で「大正」「天興」「興化」に絞られ、枢密顧問の審議により「大正」に決定した。

 昭和改元

  • 1926年(大正15年)12月25日、大正天皇崩御。同日、皇太子(摂政宮)裕仁親王(昭和天皇)の践祚を受け直ちに改元の詔書を公布して昭和に即日改元した。

    朕皇祖皇宗ノ威靈ニ賴リ大統ヲ承ケ萬機ヲ總フ茲ニ定制ニ遵ヒ元號ヲ建テ大正十五年十二月二十五日以後ヲ改メテ昭和元年ト爲ス(以下略)
    (昭和改元の詔書)

  • 1926年の最後の1週間だけが昭和元年となった。西暦の1926年12月25日は、大正15年であり昭和元年でもある。
  • なおこの際、東京日日新聞が「新元号は光文」と誤報した(光文事件)。
  • 「昭和」の由来は、四書五経の一つ書経堯典の「百姓昭明、協和萬邦」(百姓(ひゃくせい)昭明にして、萬邦(ばんぽう)を協和す)による。漢学者・吉田増蔵の考案。
  • 「昭和」が元号の候補になったのはこれが最初である。なお、江戸時代に全く同一の出典で、明和の元号が制定されている(「百姓昭明、協和萬邦」)。国民の平和および世界各国の共存繁栄を願う意味である。
  • 当時枢密院議長だった倉富勇三郎の日記によれば、宮内省(現:宮内庁)作成の元号案として「神化」「元化」「昭和」「神和」「同和」「継明」「順明」「明保」「寛安」「元安」があったが、数回の勘申の結果、「昭和」を候補とし、「元化」「同和」を参考とする最終案が決定したとする。一方内閣では、「立成」「定業」「光文」「章明」「協中」を元号案の候補に挙げていた。

 第二次世界大戦後

  • 大日本帝国憲法下においては元号に関する規定は旧皇室典範第12条に明記されていたが、日本国憲法下においては1947年(昭和22年)に現皇室典範が制定されるに伴って条文が消失し、法的明文がなくなった。
  • しかし、その後も国会・政府・裁判所の公的文書、民間の新聞等で慣例的に元号による年号表記が用いられた。
  • 昭和天皇の高齢化に伴い、昭和天皇が崩御した後にも元号を使い続けるかどうかが注目されるようになった。そうした中、1976年(昭和51年)に行われた世論調査において、国民の87.5%が元号を使用していると回答した事情に鑑み、1979年(昭和54年)6月6日に第87回国会で「元号法」が成立、同月12日に公布・即日施行(附則第1項)された。

    1 元号は、政令で定める。
    2 元号は、皇位の継承があつた場合に限り改める。
     
       附 則
    1 この法律は、公布の日〈昭和54年6月12日〉から施行する。
    2 昭和の元号は、本則第一項の規定に基づき定められたものとする。
    (昭和54年法律43号)

  • 「昭和」の元号はこの法律第1項の規定に基づき定められたものとした(附則第2項)。

 元号選定手続き

  • 昭和54年(1979年)10月23日、第一次大平内閣において元号法に定める元号の選定について、具体的な要領を定め、閣議報告されている。

    元号選定手続について
                             昭和54年10月23日
                             閣議報告
                             昭和59年6月29日
                             一部改正
                             (7月1日施行)
                             昭和64年1月7日
                             一部改正
    元号法(昭和54年法律第43号)に定める元号の選定については、次の要領によるものとする。
     
    1 候補名の考案
    (1)内閣総理大臣は、高い識見を有する者を選び、これらの者に次の元号とするのにふさわしい候補名(以下「候補名」という。)の考案を委嘱する。
    (2)候補名の考案を委嘱される者(以下「考案者」という。)の数は、若干名とする。
    (3)内閣総理大臣は、各考案者に対し、おおよそ2ないし5の候補名の提出を求めるものとする。
    (4)考案者は、候補名の提出に当たり、各候補名の意味、典拠等の説明を付するものとする。
     
    2 候補名の整理
    (1)内閣官房長官は、考案者から提出された候補名について、検討し、及び整理し、その結果を内閣総理大臣に報告する。
    (2)内閣官房長官は、候補名の検討及び整理に当たっては、次の事項に留意するものとする。
    ア 国民の理想としてふさわしいようなよい意味を持つものであること。
    イ 漢字2字であること。
    ウ 書きやすいこと。
    エ 読みやすいこと。
    オ これまでに元号又はおくり名として用いられたものでないこと。
    カ 俗用されているものでないこと。
     
    3 原案の選定等
    (1)内閣総理大臣の指示により、内閣官房長官は、内閣法制局長官の意見を聴いて、新元号の原案として数個の案を選定する。
    (2)内閣官房長官は、各界の有識者の参集を得て、元号に関する懇談会(以下、「懇談会」という。)を開催し、新元号の原案につき意見を求め、その結果を内閣総理大臣に報告するものとする。懇談会のメンバーは若干名とし、内閣官房長官が選考する。
    (3)内閣総理大臣は、新元号の原案について衆議院及び参議院の議長及び副議長である者に連絡し、意見を伺う。
    (4)全閣僚会議において、新元号の原案について協議する。
     
    4 新元号の決定
    閣議において、改元の政令を決定する。

 平成改元

  • 1989年(昭和64年)1月7日(午前6時33分)昭和天皇が崩御。即日皇太子明仁親王が皇位を継承し、第125代天皇となった。
  • 「平成」の元号は「元号を改める政令」1989年(昭和64年)1月7日公布・翌日1989年(平成元年)1月8日施行により定められた。

    内閣は、元号法(昭和五十四年法律第四十三号)第一項の規定に基づき、この政令を制定する。
    元号を平成に改める。
     
    附則
     
    この政令は、公布の日の翌日から施行する。
    (昭和64年政令第1号)

  • 由来は、『史記』五帝本紀の「内平外成(内平かに外成る)」、『書経(偽古文尚書)』大禹謨の「地平天成(地平かに天成る)」からで、「国の内外、天地とも平和が達成される」という意味である。
  • 日本において元号に「成」が付くのはこれが初めてであるが、「大成」(北周)や「成化」(明)など、外国の元号や13代成務天皇の諡号には使用されており、「平成」は慣例に即した古典的な元号と言える。
  • 江戸時代最末期、「慶応」と改元された際の別案に「平成」が有り、出典も同じ『史記』と『書経』からとされている。
  • 元号案の選定
    • 昭和54年(1979年)6月6日、第87回国会で「元号法」が成立、同月12日に公布、即日施行されると、政府は極秘裏に中国哲学が専門の宇野精一東京大学名誉教授、東洋史が専門の貝塚茂樹京都大学名誉教授、日本古代史が専門の坂本太郎東京大学名誉教授の3人を含む複数の有識者に候補選定を依頼していた。
    • この候補案は政治家ではなく歴代の内閣官房内閣審議室長(のち内閣内政審議室長を経て現在は内閣官房副長官補)一人が管理しており、昭和60年(1985年)7月に就任した的場順三氏は先代の室長から新元号の候補及び「元号選定手続」マニュアルを引き継いだという。
    • しかし昭和62年(1987年)2月に貝塚氏と坂本氏が相次いで亡くなったため、的場氏は新たに国文学が専門の市古貞次東京大学名誉教授、中国哲学が専門の平岡武夫京都大学名誉教授、中国文学が専門の目加田誠九州大学名誉教授、東洋史が専門の山本達郎東京大学名誉教授の4人に候補案の検討を依頼する。
    • 平岡氏が辞退したため、実際の改元に際しては、宇野氏、市古氏、目加田氏、山本氏の4人から集めた候補が手元に残っていたという。このうちまず国文学が専攻の市古氏の候補が外れ、残る三氏の候補がそれぞれ1つずつ選定された。この結果、昭和に代わる元号として、宇野氏考案の「正化(せいか)」、目加田氏考案の「修文(しゅうぶん)」、山本氏考案の「平成(へいせい)」の3つの原案が残ることとなった。
      この考案者について的場氏は、日本学士院会員であること、文化功労者や文化勲章受章者、またはそれに匹敵する著名人から選定したという。また最終候補から外れた国文学専攻の市古氏を考案者に入れたことについては、「もし(今回)いい案ができなかったとしても、国文学の専門家を選んでおくことが将来につながると思った」と述べている。
  • 「平成」以外の候補としては他に「修文」 「正化」があり、政府は前者が目加田氏、後者が宇野氏の提案によるものと認めていたが、「平成」の提案者については長らく謎のままであった。しかし2015年、決定当時に内閣審議室長として元号担当であった的場順三元官房副長官が、自著において山本氏の提案であったことを明らかにしたことで長年の謎が解けることとなった。
    なお考案者のひとりであった目加田氏は平成6年(1994年)に亡くなっているが、その蔵書1万6千冊は遺族より大野城市に寄贈された。2011年に市の担当者が同氏の自宅で蔵書を整理していた時に、直筆の元号考案メモを発見したことが2019年2月に報道された。それによればメモは9枚で、最終候補となった「修文」のほか、「天昌(てんしょう)」「靖和(せいわ)」「普徳(ふとく)」など少なくとも20案が記されており、赤のボールペンで丸で囲んだり、一度書いた案を消したりするなど、推敲の過程がうかがえるものであったという。
    平成改元、見送りの20案 九州大名誉教授の肉筆メモ発見|【西日本新聞】
  • 元号に関する懇談会
    • 昭和64年(1989年)1月7日午前6時33分に昭和天皇が崩御すると、その午後、政府は以下の8人の有識者で構成される「元号に関する懇談会」を開催、衆参両院正副議長も参加の上で、全員一致で「平成(へいせい)」が選定された。
    1. NHK会長 池田芳蔵氏
    2. 東京大学教授 久保亮五氏(物理学)
    3. 日本新聞協会会長 小林与三次氏
    4. 日本民間放送連盟会長 中川順氏
    5. 東京大学名誉教授 中村元氏(インド哲学)
    6. 日本私立大学団体連合会会長 西原春夫氏
    7. 国連婦人の地位委員会の委員 縫田曄子氏
    8. 国立大学協会会長 森亘氏
  • なお「元号に関する懇談会」に選ばれた8人の有識者がいつごろ選定されたのかについては、西原春夫氏が昭和天皇が亡くなられる1年近く前の昭和63年2月に、古川貞二郎内閣官房首席内閣参事官(当時。後の内閣官房副長官)が入学試験期間中のために閉鎖されていた大学のキャンパスを訪ねてきたという。また別の人物は、昭和63年9月ごろに、政府関係者から電話で依頼があったという。WEB特集 平成改元 30年へて新証言 | NHKニュース
    最初に「平成」を考案したのが山本達郎氏ではなく、陽明学者の安岡正篤氏であったのだという逸話が残っている。当初政府が元号案を依頼した中に安岡氏がおり、「いつか昭和が終わったら次は平成というのはどうだろう?平和が成り立つという意味だ」と語っていたとされる。しかし安岡氏は昭和58年(1983年)に亡くなっており、「(先帝崩御前に)亡くなった考案者の元号案は採用されない」というルール上、安岡氏の案は採用されない。
     前述の的場氏は、「(山本氏に)日本学士院で初めてお会いした時、『これはいい文章だと思うんだけどな。これとこれを合わせるとこうなる』と、その場で『平成』を示されました。私が何か誘導したかのように書く向きもあるが、誘導なんて雰囲気じゃない。亡くなった人の案を新しい先生のところに持って行き、『これでやってください』なんて不遜なことは言えない。言ってごらんよ、『じゃあ私は辞めます』と言われますから。」と完全に否定している。
    平成の次は? 新元号を探る | 特集記事 | NHK政治マガジン
  • 新元号墨書
    • なお平成改元時に当時内閣官房長官であった小渕恵三氏が「平成」と書かれた白木の額入りの墨書を記者会見場で掲示しながら発表を行った。この墨書を掲げるというのは小渕官房長官の秘書官であった石附弘氏(警察官僚)のアイデアであるとされ、発表直前に辞令専門官だった河東純一氏にひそかに指示し、河東氏が予備を含めて2枚したため、小渕氏はそのうちの1枚を携えて記者会見に臨んだ。
    • 平成改元時には公文書管理法(公文書等の管理に関する法律、平成21年7月1日法律66号。2011年4月1日施行)が存在せず、この二枚の墨書は発表後、一枚は当時の竹下総理の私邸に、もう一枚は小渕氏の私邸に渡り、一般には行方知れずとなっていた。その後、竹下総理の孫であるDAIGO氏がTV番組において自宅にあるという発言をしたことにより所在が判明した。
    • 国立公文書館が竹下家に連絡を取り、平成21年(2009年)に墨書を借り受け、平成22年(2010年)3月に寄贈を受け、「特定歴史公文書 平成の書」として公文書館に永久保管されることになった。竹下家にはレプリカが贈られたという。
    • 平成の書

 令和改元

  • 「令和」への改元については、天皇の崩御に伴うものではなく、予め決定された譲位に伴って行われた。
    なお天皇の行為としては「譲位」に他なりませんが、現行法令下においては政府発表の通り「退位」と「即位」という表現になります。以下でもそれに従います。
  • 2016年8月8日、「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」(国民に向けたビデオ・メッセージ)が発表され、譲位に関する議論が活発化した。2017年(平成29年)、「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」の法案が内閣により国会の常会(通常国会)に提出され、衆議院と参議院の両院で原案の通りに可決されて6月9日に法律となり、同月16日に公布された。
  • 2017年(平成29年)12月1日に開催された皇室会議、同月8日の閣議で、”2019年(平成31年)4月30日をもって天皇が退位する”ことが決定され、同月13日には同法の施行期日を”平成31年4月30日”とする政令が公布された。
  • 特例法第二条の規定によって、天皇が同日に退位し皇太子が翌5月1日に即位するという日程が決まった。この皇位の継承を受けて、元号法の規定に基づき、5月1日に元号が改められた。
  • 2019年4月1日、日本政府は平成に代わる新しい元号を「令和」(読み方:「れいわ」)と発表。 同日、元号を改める政令が公布され、同日付の『官報』に掲載された(施行期日は5月1日)。「令和」の読み方は同日の内閣告示で示された。

    政令
    元号を改める政令をここに公布する。
     御名 御璽
     
      平成三十一年四月一日
                       内閣総理大臣 安倍晋三
     
    政令第百四十三号
     元号を改める政令
    内閣は、元号法(昭和五十四年法律第四十三号)第一項の規定に基づき、この政令を制定する。
    元号を令和に改める。
     附則
    この政令は、天皇の退位等に関する皇室典範特例法(平成二十九年法律第六十三号)の施行の日(平成三十一年四月三十日)の翌日から施行する。
     
                       内閣総理大臣 安倍晋三
     
    告示
    内閣告示第一号
     元号を改める政令(平成三十一年政令第百四十三号)の規定により定められた元号の読み方は、次のとおりである。
     令和(れいわ)
     
     平成三十一年四月一日
                       内閣総理大臣 安倍晋三
    (平成31年4月1日 官報号外)

  • 出典は、『万葉集』巻五の「梅花謌卅二首并序(梅花の歌 三十二首、并せて序)」にある一文である。確認される限り、「令和」は日本の古典から初めて選定された元号である。

      梅花歌卅二首并序
    天平二年正月十三日、萃于帥老之宅、申宴會也。于時、初春令月、氣淑風和。梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香。加以、曙嶺移雲、松掛羅而傾盖、夕岫結霧、鳥封縠而迷林。庭舞新蝶、空歸故鴈。於是、盖天坐地、 促膝飛觴。忘言一室之裏、開衿煙霞之外。淡然自放、快然自足。若非翰苑、何以攄情。詩紀落梅之篇。古今夫何異矣。宜賦園梅、聊成短詠。
     
    〔読み下し文〕
    梅花の歌三十二首 序を并せたり
    天平二年(730年)正月十三日、帥老(そちろう)(いえ)(あつ)まり、宴會を()ぶ。時に、初春の月にして、気(うるは)しく風(やは)らぐ、梅は鏡前の粉に(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香を(かを)らす。
    加以(しかのみにあらず)、曙の嶺に雲移りて、松は羅を掛けて(きぬがさ)を傾け、(ゆふべ)(くき)に霧結びて、鳥は(こめのきぬ)(とぎ)されて林に迷ふ。庭に新蝶(しんてふ)舞ひ、空に故鴈(こがん)歸る。(ここ)に於て、天を(きぬがさ)にし地を(しきゐ)にし、 膝を(ちかづ)(さかづき)を飛ばす。(こと)を一室の裏に忘れ、(ころものくび)煙霞(えんか)の外に開く。淡然として自ら放にし、快然として自ら足る。若し翰苑(かんえん)に非ざれば、何を以てか情を()べむ。詩に落梅の篇を紀す。古今それ何ぞ異ならむ。宜しく園梅を賦して、(いささか)に短詠を成すべし。

    ただしこの序は当時流行した四六駢儷体で書かれており、様々な漢籍を平仄を整えながら参照するという高度な手法で構成されている。それが当時の知識人の知的遊戯であり、和歌の世界での本歌取にも受け継がれる。「初春令月、氣淑風和。」の箇所については、古来、張衡「帰田賦」(文選巻十五)の句にある「於是仲春令月時和氣淸原隰鬱茂百草滋榮」を引いたものであるとの指摘がなされている。

  • 官房長官の発表時に掲げられた墨書は、内閣府人事課の辞令専門職である茂住修身(もずみ おさみ)氏によるもの。同氏は「茂住菁邨」の号を持つ書家で、内閣府で辞令専門官として勤務し、定年後に再雇用された。

 元号決定過程

  • 元号決定過程については、「平成」改元と同じ過程を経たと発表されている。
  1. 候補名の考案:考案者の選定と元号候補の提出。正式に委嘱されたのは5名だと判明している。
    ・国際日本文化研究センター名誉教授 中西進氏
    ・東京大学名誉教授 池田温氏(東洋史)
    ・二松学舎大学元学長 石川忠久氏(中国文学)
    ・中央大学名誉教授 宇野茂彦氏(中国哲学) ※「正化」考案宇野精一氏の子息
    ・「国書」専門と見られる人物
  2. 候補名の整理
    内閣官房長官、内閣法制局長官らによる会議において精査し、新元号の原案として数個の案を選定する。2019年3月中旬には6案に絞り込まれていた。
    話が錯綜しているが、歴代政権からの引き継ぎ候補が60~70個あり、そこから20程度に絞り込んだ。その上で3月中旬に新たに国書由来の候補案を依頼し、3案が追加提案された。追加3案のうち「令和」を既存の5案に加え、最終候補案6個にした。というのが概ねの流れのようである。
  3. 原案の選定:※以降は改元当日の動き
    以下9名の各界有識者による「元号に関する懇談会」での選定。※この時点で6案が示されたという。「令和」に7名、B案、C案に各1名が賛意を示したという。
    ・NHK会長 上田良一氏
    ・民放連(日本民間放送連盟)会長 大久保好男氏
    ・日本私立大学団体連合会会長 鎌田薫氏
    ・経団連名誉会長 榊原定征氏
    ・日本新聞協会会長 白石興二郎氏
    ・前最高裁判所長官 寺田逸郎氏
    ・作家 林真理子氏
    ・千葉商科大学国際教養学部長 宮崎緑氏
    ・京都大学iPS細胞研究所所長 山中伸弥氏
  4. 衆参両院の正副議長の意見聴取
  5. 新元号の決定
    全閣僚会議において、新元号の原案について協議し、続いて行われる閣議において、改元の政令の決定という形で決定する。
  6. 天皇陛下による政令文書への署名・押印
  7. 新元号発表

 候補名

  • 漏れ伝えられる話しによれば、封筒の中にA3用紙が入っており、縦書きで候補名が6つ、五十音順で記されていたという。
  • 候補名は次の6案であったと判明している。
英弘(えいこう)
「古事記」
久化(きゅうか)
漢籍「四書五経」の1つ「易経」 ※未採用元号2回目
広至(こうし)
「日本書紀」と「続日本紀」
万和(ばんな)
歴史書「史記」「文選」 ※未採用元号15回目
万保(ばんぽう)
漢籍「四書五経」の1つ「詩経」 ※未採用元号8回目
令和(れいわ)
「万葉集」 ※採用

未採用元号は判明しているものに限る。

 候補名「令和」の考案者について

  • 2019年4月1日の元号公表後から、候補名「令和」の考案者捜しがマスコミで行われた。複数名前が挙げられる中、本命と見られているのが、文化勲章受章者で国際日本文化研究センター名誉教授の中西進氏。※本人は否定している。
  1. 1994年:歌会始召人
  2. 2001年:奈良県立万葉文化館館長
  3. 2004年:文化功労者受賞
  4. 2005年:瑞宝重光章受賞
  5. 2013年:文化勲章受賞
  • ここにはとても書ききれないほどの業績を挙げ、また要職を歴任してきた人物で、専門は日本文学。なかでも万葉集研究では第一人者。中西進氏の元にはマスコミが殺到し、考案者であるか否かの確認を行っているが、本人は「私からお話しすることはありません。何も知りません」「元号は中西進という世俗の人間が決めるようなものではなく、天の声で決まるもの。考案者なんているはずがない」と否定したという。
  • 平成改元のときと同様に、生前に本人の口から漏れるようなことはないと思われ、そもそも漏らすような人物に考案の依頼は行わないと思われる。

 その他の考案者について

  • 候補名「万和」
    • 候補名「万和」の考案者については、中国古典が専門の二松学舎大元学長の石川忠久氏であることが自らの証言により明らかになっている。
    • それによれば、古谷一之内閣官房副長官補から3月14日付の手紙で依頼を受け、「和貴」「万和」「光風」など十数案の候補名を提出したという。
    • 万和に「平和への願いを込めた」という。典拠は中国古典の文選にある「奏陶唐氏之舞、聴葛天氏之歌、千人唱万人和」(いにしえの聖天子の舞いや歌を歌うと多勢の人が唱和する)との一節としている。
  • 候補名「英弘」、「久化」、「広至」、「万保」
    • これら4候補については、2019年8月5日宇野茂彦中央大名誉教授による候補案であることが判明した。
    • 当初「英弘」については、中国古代史が専門の学習院大元学長の小倉芳彦氏も候補案の依頼を受け、2017年夏までに提出したという報道があったが、後日誤報であることがわかった。提出した候補名は、「英弘」のほかに、「和貴(わき)」「成教(せいきょう)」「正同(しょうどう)」「貞文(ていぶん)」「貞久(ていきゅう)」「弘国(こうこく)」「弘大(こうだい)」「泰通(たいとう)」「泰元(たいげん)」「豊楽(ほうらく)」「光風(こうふう)」「中同(ちゅうどう)」の計十三案であったという。

 元号案担当の特定問題担当職員

  • この令和改元の際の元号案選定に大きな役割を果たした人物の一人に、尼子昭彦氏がいる。
  • 同氏は昭和27年(1952年)に生まれ、二松学舎大大学院で中国哲学を専攻し、昭和63年(1988年)から国立公文書館に在籍、公文書研究官として中国古典を担当した。
  • 国立公文書館での肩書は「統括公文書専門官室主任公文書研究官」だが、これは仮の姿であり、同時に内閣官房副長官補室の内閣事務官も兼任していた。2010~2013年まで国立公文書館館長を務めた高山正也氏も、「前任の館長から秘密裏に元号関係の仕事をしていたと聞いていた」と明かしている。
    内閣官房副長官補は内閣官房副長官に次ぐポストで、3人いる副長官補のうち内政担当の1人は歴代大蔵省(現在の財務省)出身者が就任してきている。2001年の行政改革以前は内政審議室長。この際に内閣内政審議室長、内閣外政審議室長、内閣安全保障・危機管理室長がそれぞれ内閣官房副長官補となり担当業務を引き継いでいる。
     内閣官房副長官補(内政担当)の主な担当は財政や税制に関する省庁間の政策調整だが、それ以外に”特定問題”として天皇の代替わりと新元号の選定作業を受け持っている。2019年の改元当時は大蔵省出身の古谷一之氏。
  • 尼子氏は、平成改元を経て一貫して極秘の元号案選定作業に関わっており、令和改元に関しては、歴代の内閣官房副長官補(内政担当)と共に候補名の考案を委嘱した学者の元に通い、会話を重ねる中で候補案の回収を続けた。
  • 考案者と定期的に面会し、新たな候補案が出てくれば副長官補室にある金庫へ保管、考案者が亡くなればその方が考案した案を金庫から取り出し除外するという作業を、30年近く極秘裏に進めてきたという。
  • 尼子氏は自らも中国古典の専門家であり、平素は国立公文書館で中国古典の展示などに従事しながらも、元号候補案選定に関しては事務方に徹し続けた。
  • 令和元号の決定を見ることなく、2018年5月に死去。

 新元号墨書

  • 平成の例にならい、令和改元の際にも新元号墨書が認められ、新元号発表で菅義偉内閣官房長官(当時)により掲げられた。令和3年(2021年)4月に国立公文書館へと移管され、「特定歴史公文書 令和の書」として公文書館に永久保管されている。

 その他

  • 考案者が判明している平安中期以降の202の元号のうち、132の元号がかつて候補に上った「未採用元号」である。
  • 近年の未採用年号から選定された元号 ※判明しているもの
慶応
5回目の提案で採用
明治
11回目の提案で採用
大正
5回目の提案で採用
平成
「慶応」選定時の候補のひとつ

「慶応」選定時に「平成」を考案したのは、菅原道真の末裔で漢籍の専門家であった高辻脩長。なお「昭和」についても同じ典拠箇所で「明和」が選定されたことがある。『尚書』の「九族既睦、平章百姓、百姓昭明、協和万邦、黎民於變時雍。」

 参考


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