日本左衛門
日本左衛門(にっぽんざえもん)
江戸中期の大盗賊
- 浜島庄兵衛のこと。
- 「日本左衛門」の初出は、浄瑠璃「風俗太平記」に出てくる天正年間に活動していた賊徒の名前。浜島がこれから取り日本左衛門を名乗ったという。
日本左衛門といふ異名は、寛保三年三月豊竹座の新浄瑠璃「風俗太平記」に、藤堂和泉守高虎か捕へました天正年中の強賊日本左衛門の事が仕組まれてゐる、それが擴がつて見附の泥坊團の頭領に呼ばれるやうになつたものでせう。浄瑠璃には一と足お先に石川五右衛門がありまして、これは誰も知つて居りますが、日本左衛門の浄瑠璃の方は、その後忘れられましたので、濱嶋庄兵衛の前に「風俗太平記」のあることを知らぬ者が多い。そこで庄兵衛が日本左衛門の名を獨占するやうになつたのです。
(泥坊づくし)都より宇治へ往来の夜の道。下の醍醐の松原に徘徊する。大倭日本左衛門といふ盗賊の張本有。己が不敵の大鳥に人を直下と鷦鷯。五畿七道に搏て飛翅の下に付廻る。手下の者共大勢引ぐし。暮ぬ内から出張して。道筋ふさぎ扣へしは関をすへたるごとく也。
(風俗太平記)
「風俗太平記」は寛保3年(1743年)3月18日刊行。
浜島庄兵衛
- 浜島庄兵衛は、尾張藩の七里役・浜島富右衛門(友右衛門)の子として生まれる。
七里とは、江戸時代の大藩が街道に設置した自藩専用の飛脚制度。七里ごとに七里役所を置き、そこに常駐する七里役が重要な文などを運んだ。この七里役の中に横暴を振るうものがおり、無宿者などを集め賭博などを行うものも多かったという。
- 若い頃から放蕩を繰り返し、やがて200名ほどの盗賊団の頭目となって遠江国を本拠とし、東海道沿いの諸国を荒らしまわった。
- 延享3年(1746年)年9月、被害にあった駿河の庄屋が北町奉行能勢頼一に訴訟したことから、老中堀田正亮の命により幕府から火付盗賊改方頭の徳山秀栄が派遣されることとなった。この時盗賊団の幹部数名が捕縛されるが、日本左衛門は逃亡した。
- 遠国への逃亡を図るも、延享3年(1746年)10月に盗賊初となる人相書が触れだされ、安芸国宮島で自分の人相書を目にした日本左衛門はもはや逃げ切れないと観念し、延享4年(1747年)1月7日に京都町奉行永井尚方に自首、江戸に送られ小伝馬町の牢に繋がれる。
- 市中引き回しの上、3月11日に処刑され首は遠江国見附に晒された。
この日本左衛門捕物の際に使われたのが「神保長光」であるとされる。
人相書
- この頃まで、人相書(指名手配書)は親殺しや主殺しなど重罪の場合にのみ発行されるものであり、盗賊としては浜島庄兵衛の人相書が日本初のものであったとされる。
人相書之事 十右衛門事
浜嶋庄兵衛
一 せひ五尺八九寸程 小袖鯨さし 三尺九寸程
一 歳弐拾九歳 見掛三拾壱弐歳ニ相見候
一 月額濃引疵壱寸五分程
一 色白歯並常之通 一 鼻筋通り
一 目中細ク 一 皃おも長なる方
一 ゑり右之方江常かたき籠在候
一 ひん中ひん 中少しそり元ゆひ十ヲ程まき
一 逃去り候節着用之品
こはくひんろうしわた入小袖
但紋所丸之内橘
下ニ単物萌黄袖紋所同断
同白郡内ちばん
(略)
- この人相書によれば、日本左衛門は五尺八・九寸(身長175cm前後)、色白で面長、鼻筋通り、目中細く(切れ長)であったという。さらに濃い月代に引き傷を見せ、琥珀織りの絹織物を赤みを帯びた暗黒色にした小袖を羽織り、丸の内に橘の紋所を見せるという伊達な格好をしていたという。また首を右に傾けるという癖(ゑり右之方江常かたき籠在候)まで記述されている。
その後
- この日本左衛門こと浜島庄兵衛は話題となり、松浦静山の「甲子夜話」などで取り上げられているほか、河竹黙阿弥作「
白浪五人男 」(青砥稿花紅彩画 )において、日本駄右衛門のモデルとなった。濱嶋庄兵衛と云しは、享保の頃世に日本左衛門と呼し大盗なり。此人盗せし初念は、不義にして富る者の財物は、盗取とも咎なき理なれば苦からずと心掟して、その人その家を量りて盗入しとぞ、次第に場數を歴るまま、盗の仕方十分手に入、いかなる所へも入れぬことはなきほどになりたり。
(甲子夜話)
- また江戸町奉行を務めた根岸鎮衛の随筆「
耳嚢 」では、「鱣魚は眼氣の良藥なる事」において取り調べを受ける日本左衛門が夜目が効く理由を問われ、うなぎを食べているためだと答えている場面が登場する。さらに「武邊手段の事」では、日本左衛門の処刑後に子分の1人である山伏の逃亡話が載っている。こちらは大坂の町同心により山伏が普段使っている鉄棒を取り替えることで捕らえられるという逸話になっている。
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