日光長光
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日光長光(にっこうながみつ)
刀
二代長光作
長二尺
由来
- 日光の社家小野源太夫の所持にちなむという。
二代長光は日光と称したともいい、「日光左近将監」と呼ぶ。
来歴
- 慶長5年(1600年)遠州浜松城主の堀尾忠氏は、小山にあった時に家康に対して異心無い証として妹の婿に家康の近親を賜りたいと願い出ていた。
- 家康は、大久保忠隣の次男忠総を指名し、婚約がなっている。
- 関ヶ原の後、大久保忠総は外祖父であり上総成戸2万石を領する石川家成の養子となり、堀尾忠氏の妹を娶った。
大久保忠隣の正室が石川家成の娘。
石川家成は天正8年(1580年)に長男の康通に家督を譲って隠居している。慶長12年(1607年)に大垣藩初代藩主であった嫡子康通が死去したため、家督に復帰して第2代藩主となる。慶長14年(1609年)に死去。跡を外孫で養子の忠総が継いだ。
- この時、徳川秀忠は堀尾忠氏にこの「日光長光」の刀を与えている。
(慶長5年)このとし出雲穩岐兩國に封ぜられ二十四萬石を領し。 又仰によりて忠氏が妹を石川宗十郎忠總に嫁す。 このとき右大將殿より日光長光の御刀を給ふ。
- 寛永10年(1633年)9月30日に堀尾忠氏の嗣子、忠晴が35歳で早世すると、嗣子がなく御家断絶となる。「日光長光」は、忠氏の遺言により家光に献上されている。
この日三十五歳にて卒せしなり。子なければ家絶たり。遺物とて日光長光の刀を奉る。
- 明暦の大火で消失したと見え、その後は消息不明。
- 一説に、上杉家御手選三十五腰の「高瀬長光」がこの日光長光と同物ではないかといわれている。
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