念仏刀


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 念仏刀(ねんぶつとう)


兼光

  • 「唱え念仏」とも
  • 備前長船兼光の作
  • 北近江浅井氏の家臣百々(どど)内蔵助の刀。

 由来

  • この刀で罪人を試し切りしたところ、切り口が吸い付いて離れず、高らかに念仏を唱えた後ようやく二つにわかれたためという。

    江州野良田合戦に浅井久政か兵百々内蔵介を討取。此内蔵介は覚の者にて、名誉の刀を持、世上にて百々か念仏刀と異名を付る。科人を成敗するに打放して其侭切口に吸付居て、念仏高声に唱て二つに放候故に念仏刀と云伝。
    (武辺咄聞書)

    百々内蔵介念仏刀の事
    百々内蔵介は覚の士にて、世に其の名を知らる、又名誉の刀を所持す、世上に百々が念仏刀と号す、是を以て科人を成敗するに、打放つと其の儘、切口吸付て、念仏高声に唱へて、其の後二つに成しとなり、仍て斯く云へり。
    (翁草)

 来歴

  • 武辺咄聞書では百々内蔵介は野良田合戦で討ち死にしたことになっているが、実際にはその翌年の佐和山城での戦いで討ち死にしている。
    「翁草」では、蒲生定秀に仕えていた結城十郎兵衛が討ち取ったとする。

 百々氏

  • 百々(どど)氏は、もと伊予河野氏の一族が応仁の乱での戦功により京極持清から小野庄および百々村を与えられ、百々内蔵助を名乗ったのに始まるという。
    現在の佐和山城跡の東、鳥居本(東海道新幹線と国道8号線が交わる)の辺りに百々屋敷があったという。
  • 位置的に南北近江の両勢力の侵食を受けやすいため、百々氏はその時々に京極氏、六角氏、浅井氏など大勢力に属してきた。

 浅井氏の台頭

  • 北近江半国守護京極家の被官であった国人領主浅井氏は、浅井亮政(長政の祖父)の代に京極家の御家騒動を発端とした衰退に乗じて下克上を成し遂げ、越前朝倉家の助けを得て戦国大名として名を挙げた。
  • 百々内蔵助盛実はこの時に浅井氏に属し、のち永禄2年(1559年)には長政が百々内蔵助に佐和山城代を命じている。

 浅井六角の対立と野良田合戦

  • しかし浅井氏の勢力拡大に伴い、南近江の半国守護六角氏との対立が激しくなる。亮政の死後、家督を継いだ久政は器量にかけており、六角承禎の圧力に耐えかね従属することになる。これに反発した家臣たちがクーデターを起こし、久政の子賢政(後の浅井長政)に家督を譲らせる。
    久政の嫡子新九郎(浅井長政)は六角義賢の一字を取って「賢政」を名乗り、六角氏の家臣である平井定武の娘を正室に娶らされていた。家督を継いだあと、賢政の名乗りを返上するとともに平井定武の娘を送り返している。
  • これにより六角氏との関係は悪化し、永禄3年(1560年)六角承禎は浅井方に寝返った高野備前守の肥田城を2万5千の兵で取り囲んだ。六角氏の動きを知った浅井長政は1万1千の兵を率いて出陣し、両者は野良田で対峙する。
  • 百々内蔵助盛実は、この野良田合戦において先鋒を務めたとされる。緒戦では兵力で圧倒的な六角軍が浅井軍を押したが、優勢に油断していたところを浅井軍の反撃や新手の斬り込みなどで崩され、合戦は浅井軍の勝利となった。

 佐和山城の攻防

  • 翌永禄4年(1561年)浅井氏は美濃に出兵して斎藤義龍と交戦し、これを破っている。この際に佐和山城主として残ったのが百々内蔵助で、六角軍に急襲され討ち死にを遂げる。
  • この時六角承禎は忍者を用いたとされ、忍術書「万川集海」に記述が残る。それによると承禎は伊賀の「楯岡ノ道順」を呼び寄せ、佐和山城内に火を放つよう依頼している。楯岡ノ道順配下の忍者は、百々氏の家紋入りの提灯を掲げて城内に忍び入り、城内各所で一斉に火を上げたという。
  • 城内が混乱する中、近くに潜ませていた六角承禎の兵が一気に雪崩れ込み、城は落城、百々内蔵助は自刃に追い込まれる。六角氏の動きに気づいた浅井長政が反転し近江に戻ったため、六角承禎は佐和山城を捨てて退却した。佐和山城には磯野員昌が入っている。

 その後

  • この後、永禄6年(1563年)に六角氏で観音寺騒動が起きると六角家臣の中で浅井氏に付くものが多く、六角承禎・義治父子は居城観音寺城を一時追われている。蒲生定秀の尽力により観音寺城に戻った六角親子だったが、六角氏の衰退は明らかで、永禄11年(1568年)には足利義昭を奉じて上洛中の織田信長との間に観音寺城の戦いが起き、六角氏は甲賀に落ち延びた。
  • 佐和山城はのち信長の包囲を受け開城、元亀4年(1573年)に丹羽長秀が入城する。その後、天正10年(1582年)の清州会議後に堀秀政、天正13年(1585年)の堀尾吉晴に次いで、天正18年(1590年)には石田三成が入城している。
  • 関ヶ原の後、この地は井伊直政に与えられ、琵琶湖寄りの場所に彦根城が築城されるとともに佐和山城は破棄された。

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