後藤四郎兵衛
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後藤四郎兵衛(ごとうしろべえ)
室町期から江戸期にかけて彫金を家職とした系統
後藤家の当主は、代々後藤四郎兵衛(ごとうしろべえ)を通称した
大判座後藤
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概要
- 室町幕府より御用達彫金師として仕え、戦国期には信長、秀吉、家康と仕える。
- 茶屋四郎次郎家、角倉了以家と共に、京都の三長者と呼ばれた。御用達町人による恒例の年頭御礼においても、大判座後藤、金座後藤、本阿弥三郎兵衛、後藤縫殿助、茶屋四郎次郎の順で筆頭にあった。
元禄改鋳の功労により、元禄10年(1697年)~金座後藤十一代庄三郎光包が遠島流罪となった文化7年(1810年)までの間、ならびに金座後藤十三代三右衛門光亨が御用達町人上席となった天保5年(1834年)~入牢させられた弘化元年(1844年)までの間は、金座後藤が筆頭となり、大判座後藤は次席となっている。
初代:後藤祐乗(ごとうゆうじょう)
- 室町時代の金工家であり、装剣金工の後藤四郎兵衛家の祖。
- 美濃の生まれという。姓は藤原、氏は後藤。
祐乗
祐乗者、美濃州人也。姓藤原、氏後藤、號四郎兵衛、諱祐乗。
- 初め将軍足利義政側近の軍士として仕えていたが、18歳の時に同僚からの讒言を受けたために入獄し、獄士に請うて小刀と桃の木を得て神輿船14艘・猿63匹を刻んで見せたところ、その出来栄えに感嘆した義政によって赦免され、装剣金工を業とするように命じられたと伝える。
偶得一桃核、手刻山王七社之神輿、船一十四艘、猿六十三頭。其細密也、非言語之所及也。遂聞相公。々一見而大奇之、且知乗非常人也。廼釋其罪、因命造軍器。
- 永正9年(1512年)没。
二代:後藤宗乗(ごとうそうじょう)
- 寛正2年(1461年)生まれ。
- 後藤祐乗の次男。
宗乗、號四郎兵衛。其先、本籍美濃。父祐乗左授、遂遷居洛陽、以能繼父業、得名。與弟昌尊家學倶造其妙。
三代:後藤乗真(ごとうじょうしん)
- 永正9年(1512年)生まれ。後藤宗乗の長男。
- 12代将軍足利義晴、13代将軍義輝に仕えた。永禄5年(1562年)3月6日、近江坂本の所領を浅井氏に攻められ戦死した。
乗真者、宗乗之子。家學益工。襲二世之精藝、為時見稱。且事義晴相公。
四代:後藤光乗(ごとうこうじょう)
- 源四郎、四郎兵衛。
光乗、號源四郎。後改四郎兵衛。
諱光家。薙髪後、號光乗。乗真之嫡子也。
能世家學、有出藍之美。時人咸稱其妙。與古法眼狩野元信同時。居亦相近。元信毎繪一圖、必使光乗評論之。其圖畫之氣韻格制、莫不能盡鑑閲之精妙也。光乗亦欲鐫刻人形花鳥、則先使元信繪其圖而依其様也。義晴相公亦自圖鞍馬与介蟲、而使之模焉。相公之畫本及元信之粉本、至今猶家藏焉。
- 享禄2年(1529年)生まれ。
- 永禄3年(1560年)の父の死後豊後に移るが、元亀2年(1571年)には京都にもどり織田信長に仕えている。出家し光乗を名乗る。
- 天正9年(1581年)には信長より、また天正10年(1582年)には秀吉より、大判および分銅の役を命ぜられている。元和3年(1617年)に後水尾天皇に彫技を披露し、法眼に叙された。
- 元和6年(1620年)3月14日没。
五代:後藤徳乗(ごとうとくじょう)
- 天文19年(1550年)生まれ。
- 父とともに織田信長・豊臣秀吉に仕え、判金改・分銅役をつとめる。天正大判を鋳造する。
- 江戸開府後は一時不遇をかこったが、弟の後藤長乗(分家して勘兵衛家を創始)の労により、長男後藤栄乗と共に徳川家康・秀忠に出仕し、大判座頭人として仕えた。
- 寛永8年(1631年)10月13日没。
- 長男後藤栄乗は6代目、三男後藤顕乗は7代目を継承。また四男後藤琢乗と五男後藤休乗はそれぞれ別家を興した。
六代:後藤栄乗
- 後藤徳乗の長男。
七代:後藤顕乗
- 後藤徳乗の三男。
小判座:後藤庄三郎家
- 後藤家で職人として働いていた橋本庄三郎は、後藤徳乗の名代として江戸に招かれ、のち後藤姓を許され後藤庄三郎光次を名乗っている。
- 当初は一代限りということであったが、幕府の御金改役後藤庄三郎家として代々後藤姓を名乗り繁栄した。
関連項目
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