巴作太刀


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 巴作太刀(ともえづくりのたち)

太刀
豊後佐伯氏伝来

  • 豊後の豪族佐伯家の重宝。
  • 伝説によれば、佐伯氏先祖の大神惟基の母は堀川大納言の息女で、その人が祖母山(そぼさん)の大蛇から授けられたという。
    惟基の母については、塩田の里の大太夫(だいだゆう)の娘花の本(はなのもと)、藤原仲平の娘、藤原伊周の娘など諸説ある。

    祖母山(そぼさん)
     祖母獄。別名姥岳(ウバタケ)、古名祖母獄。大分・宮崎・熊本の3県の県境にある標高1,756mの山である。宮崎県の最高峰であり、日本百名山に選定されている。
     山名の「祖母」とは、神武天皇の祖母・豊玉毘売命(とよたまひめのみこと)を指している。神武東征の際、紀州沖の海戦で折からの台風で船が転覆しそうになる。その時に神武天皇は祖母の故国である祖母山(添利山、そほりやま。祖母山のこと)のほうを向いて祈念したところ、波が収まって難を逃れたという伝説がある。
     宮崎県高千穂町にある祖母嶽神社は祭神として豊玉毘売命を祀っており、地元では「うばたけさん」と呼ばれている。
  • もとは「小さすが」と呼ばれていたもので、のち「巴作太刀」として伝わった。

 来歴

  • 大神惟基の母が大蛇から授けられたという太刀は、後に五男の流れの臼杵氏に伝わり、平安時代末期には「小さすが」と呼ばれていたという。※臼杵氏は大神氏の一族が豊後国臼杵荘に入り称したもの

    巴作り太刀の事祖母嶽の神射大蛇より惟基母堀川大納言の息女に譲りの太刀と云々、緒方三郎惟宗の時に小さすがと号す。

    「さすが」とは剃刀のことで、もとは太刀に対する刀(脇指し)のことをいう。小が付くため、短刀ではなかったかと思われるが、後には「巴作太刀」となっている。

大神惟基──┬高千穂太郎政次
      ├阿南次郎惟秀
      ├稙田七郎惟平
      ├大野八郎政基          佐伯初代  2代  3代  4代  5代  6代  7代
      └臼杵九郎惟盛──惟衡──惟家──佐伯惟康──惟朝──惟忠──惟久──惟直──惟宗──惟仲─┐
                                                    │
┌───────────────────────────────────────────────────┘
│ 佐伯8代      9代
└─佐伯惟秀──惟賢──惟世──┬惟安
                ├惟信──┬惟勝
                └惟治  └惟常──惟教──惟真──┬緒方惟照【伊予緒方氏】
                 10代  11代 12代 13代 │
                                  │14代  15代 16代 17代
                                  ├佐伯惟定──惟重──惟信──惟貞
                                  └惟寛【備中佐伯氏】

 大友氏重臣:佐伯惟定

  • 鎌倉時代に大友氏が豊後守護として入部すると、佐伯氏はこれに協力し、以後同家の重臣として仕えた。※豊後佐伯氏は豊後大神氏流戸次氏の支族
  • 佐伯氏14代当主であった佐伯惟定は、天正14年(1586年)の堅田合戦では島津家久の軍を撃退、天正15年(1587年)には府内から撤退する島津義弘と島津家久兄弟の軍を日豊国境の梓峠で撃破した。
    この時惟定は島津義弘所有の唐物茶入を入手しており、後に惟定にちなんで「佐伯肩衝」と呼ばれた。

 藤堂氏家臣:佐伯惟重

  • 文禄の役の際の失態で主家大友家が改易された後、佐伯惟定は文禄2年(1593年)いったん豊臣秀保の客将となり、秀保没後の文禄4年(1595年)にはその家臣であった伊予宇和島城主であった藤堂家に臣従した。
  • 佐伯惟定は元和4年(1618年)6月9日に没し、子の惟重が家督を継いだ。
  • 藤堂家が伊勢津に移封になった後、藩主藤堂高次(藤堂家2代、津藩2代藩主)が「巴作太刀」を見たいと所望した。
  • 佐伯惟重はこれを断り難く、寛永3年(1626年)10月10日の夜に「巴作太刀」を城中に持参した。高次が家臣に命じて抜かせるが、何故か抜けない。佐伯惟重が受け取って高次に渡そうとすると、突然床板が崩れ落ちて数人が転倒してしまった。
  • 翌朝、大工を呼んで修繕させようとすると、跡形もなく元通りになっていたという。

    大明神より二十五代惟重伊勢國に居任の砌、藤堂伊賀侍従藤原高次此太刀を一覧の望あり亂しかたく寛永三年十月十日の夜亥刻に惟重太刀を城中に持参あり。高次直に手をかけんことを憚り、杉原一重手にしき太刀を取ぬかんとし給へとも抜けず、其時惟重請取り抜て高次に渡さんとする時、座の板敷崩れ落て座中五六人卒倒す。上下肝を消しきとくを感ず、其後大器を出され大守祝あり盃を惟重始らるへきとの給ふによつて惟重初む祖母嶽大明神の御盃と高次雑談に有て于給ふ。夫より遊宴久し去程に翌朝匠氏を呼て修補せんと欲するに其跡なし。見者目をおとろかし聞者之を感し上下萬民に至るまて上古は知らず末代に有かたき事とも也と云あへり。

 富尾宮

  • のち、この太刀は伊勢津の富尾宮に奉納されたという。
  • 大正14年(1925年)11月の帝室博物館案内「刀剣装飾陳列目録」に本刀が掲載されている。

    七四、腰刀 一口
    伊勢藤堂家ゝ臣佐伯氏が、その祖緒形惟義から傳へたといふ「巴造の小剃刀」である。柄・鞘に胴金入れた様式、金具は煮黑金唐草文毛彫、尾長鳥文の居紋、目貫は九曜巴、柄・鞘共に大和錦にて包み漆塗、小柄・笄の拵は刀に同じ、下緒白紫緂。

 五剣

  • 佐伯一族に伝わる「手鉾之太刀(不抜之太刀)」、「飛龍之太刀」、「神息太刀」、「小屏風長刀」、「巴作り之太刀」の五剣を所持していたと記されている。

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