山本刀
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山本刀(やまもととう)
短刀
無銘
- 拵えは細川忠興考案の肥後拵であり、すべて革包み。
- 中身は無銘であった。
由来
- ある時、細川忠興(三斎)が誤って茶器を沸騰している茶釜の中に落としてしまった。近侍の山本三四郎にそれを取り出すよう命じると、山本は左手でそれをつかみ出したという。
- 忠興が左手でつかみ出した理由を尋ねると、山本は「右手は戦場において主君のために使うものでありますゆえ」と答えた。忠興はその言葉に感じ入り、腰に差していたこの短刀と、茶釜、自筆の短冊を与えた。
- 短冊には「茶の湯しやも 月に涙や こぼすらん ほろりくわんすの秋の夕暮」とあった。
「くわんす」とは、「鑵子(かんす)」のことで、茶釜を意味する。黒田官兵衛も当時の人は「くわんひょうえ」と発音していたという。
山本正倶
- 近侍の山本三四郎とは山本正倶のことであると思われる。
- 山本正倶は、千利休の切腹の際に介錯人として登場するほか、天正10年(1582年)に一色家を滅亡させた際に「面の薙刀」を忠興に差し出した人物として登場する。
秀吉公猶も憤り深く、終に切腹可被仰付ニ定り候、依之忠興君より山本三四郎正倶を介錯人に被仰付、神戸喜右衛門次義を葬礼奉行に被遣候、二月廿八日切腹の期ニ臨ミ、懐より羽与様と筒に書付たる茶杓を取出し、茶杓は是にて候と忠興公江申て給り候へとて神戸喜右衛門ニ渡し候、茶の湯の印可相伝の心にやと人々申候と也
- ※利休の最期については諸説あり
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