面の薙刀
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面の薙刀(めんのなぎなた)
薙刀
無銘 伝備前義光
刃長一尺五寸、中心約三尺五寸
- 細川忠興所用の薙刀。
由来
- 天正8年(1580年)丹後12万石を与えられた忠興は、旧領主一色家のうち最後まで抵抗する一色義有に対して、天正9年(1581年)5月妹伊也を与えて縁戚関係とすることで懐柔した。
- しかし本能寺の変の後の天正10年(1582年)9月8日、一色義有を居城八幡山城に呼び出すと、饗応の席で加州信長作の号「浮股」で手討ちにした。
- さらに一色義有の家臣が馬屋に逃げ込み抵抗するのを、山本正倶が差し出したこの薙刀を受け取った忠興が一振りすると、二人の両腕がもげたように落ちた。二振りすると顔を面でも落としたように削ぎ落としたという。
忠興君刀ニ而御働被成候を見て、山本三四郎、代々持傳たる長刀を、是をと申て、御手の下より差出を(略)、忠興君右の長刀にて御せり合候か、さゝと入て御拂候へハ、小左衛門腕兩方共ニ切られて、よろゝと致し候を、御かけ被成候に、能大夫の面を落としたる様に顔そけ候面の薙刀と御名付、御祕藏被成候、
面が削ぎ落ちたのは日置小左衛門であるという。
- これにちなみ「面の薙刀」と名づけたという。
来歴
- 元は山本正倶家に伝来したという。
山本三四郎こと山本正倶についてはあまりわかっていない。なお山本三四郎の名を冠した「山本刀」という刀も存在する。
- 一色義有を討った後、細川忠興はこれを「面の薙刀」と名付け、秘蔵したという。
- 寛永18年(1641年)5月、孫の細川光尚が熊本藩2代藩主として家督相続した祝いの席上で、光尚は去る寛永12年7月に家光の前で元服した時に将軍から拝領していた備前光忠の刀を忠興に贈った。
- これに対して忠興は「面の薙刀」を与えたが、やがてどうしたのか面の薙刀を取り返し、備前光忠も返してしまったという。
肥後様(光尚)御家督被仰付御入國の時、御花畑に新敷小書院を御構候、而三斎公を御祝儀に御振舞被成御名乗字と一同に御拝領被成候光忠の御腰物三斎公へ進候、三斎公よりは其座にて面の御薙刀被進候、面の薙刀御取返し被成、光忠も御返し被成候時、御祝儀に被進候物御返し被成候事氣味惡敷可被存候間、何にても肴を給候へと被仰遣候故、肥後様より鶴を御進上候となり。
- その後、光尚の孫4代藩主細川宣紀の十二女幾姫(清源院)が宇土城主細川興里に正室として嫁いだ際に持参したのか、同家に伝来した。
面之御長刀ハ、
丹後守 殿ゟ年月不分明御代々今以宇土ニ御傳リ、私云、宇土ニ而申傳ニ、綱利君御代御借受被成候而、影の冩被仰付候と成、但御天守ニ、當時も面の御長刀とて有之候、作ハ備前國住人貝正近と有、御下國毎ニ御著座之朝、御花畑ニ御取寄、鹿の御間ニかゝり候は、右影の御寫なるへきか、又一式義有御討果の事を、關原御陣田邊御籠城の時ニ、混し合て、怪しく色々記したるも有之、僞妄現然たるニより、こゝに出し不申候
細川行孝は細川立孝の長男、忠興の孫。初代宇土藩主。
- 昭和4年(1929年)3月の日本名宝展覧会では細川護立侯爵所持。
面の薙刀
長 一尺八寸一分
銘 義光
作者 備前國長船義光 元亨(六百○九年前)頃
傳來 細川忠興、宮津城中に一色義定を殺せし時、此れを以て一色の家臣日置小左衛門を切るに顔能面の如くに削ぎ落ちたり。
関連項目
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