大刀契


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Table of Contents

 大刀契(だいとけい)

践祚の祭、先帝から新帝に伝授されるもの
「大刀」と「契」に分かれており、
大刀は霊剣(宝剣二振り)また「契」は魚符(魚の形をしたもの)だといわれているが明らかではない。
契は七十四枚あったとも伝わるが明らかではない。

  • 古来将軍に与えられた節刀(持節将軍)の一種であったともいう。
  • 後には権力を表すものとなり、伝国璽と共に授受される宝物となる。

    要スルニ大刀契ハ践祚ノ時授受シ給ヒ行幸ニモ従ヒ、神器ニ亞ギテ重寶ナルモノナリ

 大刀契

  • 大刀契は、「大刀」と「契」に分かれている。

 大刀

  • 大刀2口と節刀数口からなる。

    大刀契ハ二物ノ名ナリ

  • このうち大刀2口は百済からの貢納と伝えられ、片方は「三公闘戦剣」の名で「将軍剣」「破敵剣」とも称される。またもう一方は「日月護身剣」の名であったといい、これらには四神や北斗七星が刻まれていたという。

    大刀ハ百済国ヨリ貢献セシ処ニシテ二口アリ、一ヲ三公闘戦剣ト名ヅケ、又将軍剣トモ破敵剣トモ云ヒ、一ヲ日月護身剣ト名ヅケ、日月七星青龍白虎等ノ象アリ

三公闘戦剣
「将軍剣」「破敵剣」とも。
日月護身剣
日月や北斗七星、四神(青龍白虎)が刻まれていた。
  • 節刀は、出征する将軍などに持たせて任を明らかにする刀になる。

    又節刀数口アリ、節刀トハ出征ノ時、大正ニ賜ヒテ閫外賞罰ノ権ヲ付與スルモノナリ

  • これら大刀・節刀の長さはいずれも2-3尺(約60-90センチメートル)という。

 

  • 兵を発するための符契(符節/割り符)。

    契ハ発兵符ニシテ魚形ヲ成シ、金銀塗銀ノ数種アリ、盖ソノ物タル、一ヲ割テ二トシ、其一ヲ留メ置キ、其一ヲ諸国ニ付シ、相勘合シテ信憑トス

  • 魚形を成して数種類があり、長さは約2寸(約6センチメートル)という。このような符契の相伝は中国の唐に倣うものと見られる。


 大刀

  • このうち「大刀」は霊剣二振りであり、長さ二尺二寸、峯に銘文があり「北斗」や「青竜」「白虎」などの文字または形が認められたとされる。
  • しかし嘉保元年(1094年)の火災を記した「中右記」によれば、火災の際に内侍所から取り出せたとされていた宝剣一〇柄の内訳は、「切鋒八柄・鯰尾二柄」であったとされた。
  • しかしその後、この「切鋒」の霊剣二柄が、天徳の焼亡(天徳四年、960年)で失われた宣陽殿剣四四柄を安倍晴明が制作して献上した際に、百済から献上された剣を模した二柄であったことが判明している。
    • この時献上したのは晴明ではなく天文博士賀茂保憲が奉勅し神護寺にて造ったともいう。また備前の鍛冶白根安生が作り献上したとも伝わる。
  • つまるところ、大刀契の形状について確たるものは残されていないということになる。

 伝授

  • 桓武天皇から平城天皇(806年践祚)に代わる際に即位の礼に取り入れられたというが、記録上登場するのは平安初期の「小右記」の長和五年(1016年)条で、そこに天長十年(833年)の淳和天皇より譲位された新帝仁明天皇の践祚に際し大刀契が譲られたと記されている。

    譲位式従大納言許被見送也、先是六箇度被送、聊有一両疑、改直亦被送也、伝国璽不知何物、仍尋其事、天長十年記見大刀啓、仍件就昨日送之、即載或文了

  • しかし江戸時代の伴信友が記した「大刀契考」によれば、日本後紀延暦二十五年(806年)三月条に「次璽幷剣櫃奉東宮(璽ならびに剣櫃を東宮に奉る)」とあり、このうち璽とは神璽の鏡と剣であり「剣櫃」が大刀契を収めた櫃であるとしており、これが桓武天皇から平城天皇に譲られたとする根拠とされる。

    今帝下自南階去階一許丈拝舞訖歩行帰列内侍持節剣追従所司供奉御輿皇帝辞而不駕衛陣警蹕少納言一人率大舎人等。持伝国璽櫃追従次少納言一人率大舎人闈司等持鈴印鑰等進於今上御所次近衛少将率近衛等持供御雑器進同所訖今上御春宮坊諸衛警蹕侍衛如常
    (儀式 譲国儀条)

    この剣櫃は、大刀契の事なり、下に挙る証文どもの中につきて考合せて推知るべし、践祚の時神宝に副て、大刀契を奉れる事の、史に見えたるは、此御時ぞ始なる、
    (大刀契考)

 消失・紛失

  • 大刀契は天徳四年(960年)の内裏の火災で焼損したとされ、その後新造された。
  • 寛弘二年(1005年)にも焼けたという。

    神鏡、大刀契多く焼損した

  • 寛治二年(1088年)11月にも焼けている。

    霊剣其他焼損したが、辛ふじて残存し得たもの十柄

    • 一説には、大刀契は一振りではなくかなりの数があったが、徐々に失われたという。
  • さらに嘉保元年(1094年)十月にも堀河院の炎上により消失、時代を下り南北朝期には完全に失われていたという。
  • ただし実際には、平家の都落ち(1183年)の際に持ち出された宝物の中に記録されておらず、すでにこの頃には失われていた可能性が高いとされる。
  • 安貞元年(1227年)12月にも大刀契が紛失したが、明年3月に細辛櫃発見、その中に劍二柄があり、また焼け残った銅鐵の魚形があった。同月二十四日杖議を行い、将軍劍を節刀櫃に入れ、今一柄を大刀契に納め、行幸には左右近衛将監が供奉するに治定した。
  • 元弘、建武にも紛失。

    大刀契並節刀、建武度紛失、被新造之

  • 暦応2年(1339年)再び紛失。

    兵乱に依りて大刀契を失ふ、是日、北朝、諸道博士に勅して、霊社の宝剣を代用するの可否を議せしむ、

  • 光明帝の暦応四年(1341年)、大刀契、節刀の沙汰があった。明年9月杖議を行い、大刀には神社の霊剣を用い、契は新造した。

    (九月二十日)北朝、大刀契紛失の事に依りて、仗議を行ふ、

  • 観応三年(1352年)8月17日、後光厳天皇践祚の際にも大刀契、鈴印共に渡されぬとあり、かつ「大刀契は年来實無し」ともあり、大刀契新造は後光厳院より後とも考えられる。

    大刀契、鈴印、これを渡されず、紛失せしめしか、年来実なし(匡遠記)




 伝来に関する諸説

  • 大刀契が天皇家に伝来した経緯については諸説が提示されている。主なものを挙げる。
  1. 亡命百済王家からの献上説
    ・白村江の戦で百済王家が亡命し、天智天皇へ献上されたとするもの。
    ・右大臣藤原宗忠の「中右記」には「これもと、百済国献ずる所」と書かれており、さらに順徳帝の「禁秘抄」に「是百済より渡さる所」と記されている。
  2. 高野新笠経由説
    ・桓武天皇の母高野朝臣新笠(たかののあそみにいがさ)は、和乙継(やまとのおとつぐ)の娘で、母は土師宿禰(のち大枝朝臣)真妹とされる。
    ・和乙継は、百済系渡来人の子孫とされ、姓(かばね)は和史(やまとのふびと)と推定されている。それによれば百済から大和朝廷へと送られた人質であった昆支王の子・武寧王(462年~523年)の10世孫とされ、一族は6代前に帰化をし和姓を下賜されたとされる。しかし、この系譜を裏付けるものとしては、「続日本紀」の「皇太后姓は和氏、諱は新笠、贈正一位乙継の(むすめ)なり。母は贈正一位大枝朝臣真姝なり。后の先は百済の武寧王の子純陀太子より出づ」という記述、または「新撰姓氏録」の「百済国の都慕王の十八世孫武寧王より出づ」のみであり、学術的には疑義が提示されている。
    ・高野新笠は、天智天皇の孫にあたる白壁王(光仁天皇)の侍妾となり、山部王(桓武天皇)、早良王を生む。なお高野朝臣(たかののあそみ)という氏姓は、新笠が光仁天皇の側妾となった際に下賜されたものである。
  3. 百済永継経由説
    ・百済永継は、藤原内麻呂の最初の妻で、後に桓武天皇の後宮で女官となり寵愛を得た。父は飛鳥部奈止麻呂で渡来人系の下級貴族。
    ・最初、藤原北家の藤原内麻呂に嫁ぎ、長男である藤原真夏と次男の藤原冬嗣を生む。当時南家(仲麻呂)が勢力を握っており、いっぽうの北家は内麻呂の父・大納言真楯(房前三男)の兄である永手系(房前二男、内麻呂の叔父)が主流だった。※長男の鳥養は夭折。
    ・しかし、以降は真楯系が北家の嫡流となり勢力を持つことになる。のちに桓武天皇の後宮で女嬬となるが、この時に天皇の寵愛を受け皇子をもうける。しかし、この皇子は母・永継の身分が低かったためか親王として認められることはなく、臣籍降下させられ良岑安世と改名した。良岑安世の子に良岑宗貞(法名 遍昭。僧正遍昭)がおり、六歌仙(三十六歌仙)となっている。

 当時の百済との関係

  • この大刀契は、元来百済王家に伝えられた宝器であったともいう。
  • なぜ百済王家の宝剣が践祚の儀式に使われるようになったのかについては明らかではないが、幾つかのつながりが指摘されている。
  • 近年、この大刀契を元に天皇家と大韓民国とのつながりを示唆する動きがあるが、いずれも根拠が薄く、系統としても日本帰化後数代を経ている。またそもそも現代の大韓民国と、7世紀に唐に滅ぼされた百済王朝との直接的繋がりはない。

 当時の朝鮮半島を巡る状況

  • 660年に唐の蘇定方将軍が百済に上陸し王都を占領、その後人質として倭国にいた扶余豊璋が帰国して百済王に推戴され、後に倭国も援軍を派遣し「白村江の戦い(663年)」が起こるが、百済と倭国はこれに大敗し、さらに668年には高句麗も唐の軍門に降り滅ぶ。676年には唐と結んでいた新羅が反乱を起こし朝鮮半島統一を図り、以降唐から赦されて冊封を受け、朝貢国となっている。
    扶余豊璋(ふよ ほうしょう)は百済最後の王である義慈王の王子。日本(倭国)に来た理由は不明だが、642年に百済で起きた大乱で「弟王子兒翹岐」とその家族および高官が放逐されたが、その一団が倭国に来たのだとも言う。百済本国の再興すべく帰国するが果たせず、嶺南地方に流刑にされたという。
  • この時代、随につづいて中国を統一した唐の出現は東アジアに多大な影響を及ぼし、三国時代にあった朝鮮半島の百済は生き残りをかけ海を挟んだ倭国と深い関係を築いていた。その修好の証の一つが大刀契であると見ることができる。のち日本も遣唐使を派遣して唐と通交を行い、天平文化や国風文化、唐名などに色濃い影響を残している。
            ┌─────伊都内親王 ┌在原行平
            │        ├──┴在原業平
      桓武天皇──┼平城天皇──阿保親王
        │   ├嵯峨天皇──仁明天皇─┬文徳天皇──清和天皇
        │   └淳和天皇       └光孝天皇──宇多天皇──醍醐天皇
        │
        ├────良岑安世─┬良岑清風
        │         ├良岑木蓮
        │         ├良岑長松
        │         └良岑宗貞(僧正遍昭)──素性法師
      百済永継
        ├───┬藤原真夏
      藤原内麻呂 └藤原冬嗣─┬藤原長良──藤原基経(北家嫡流)
                  └藤原良門(勧修寺流)
    

 関係系図

 天皇家:桓武帝~村上帝

 桓武─┬平城──阿保親王
    │
    ├嵯峨─┬仁明──────┬文徳─┬清和──┬陽成───元良親王
    │   │        │   │    │
    │   ├源信(嵯峨源氏)│   └惟喬親王└貞純親王─源経基(清和源氏)
    │   │        │
    │   └源融(嵯峨源氏)│             ┌朱雀
    │            │             │
    ├淳和──恒貞親王    └光孝──宇多──┬醍醐──┴村上
    │                     │
    ├葛原親王─┬平高棟            └敦実親王─源雅信(宇多源氏)
    │     │
    │     └高見王──平高望(桓武平氏)
    │
    └良岑安世──良岑宗貞(遍昭)

 藤原四家

       (南家)
      ┌武智麻呂─┬豊成
      │     ├仲麻呂(恵美押勝)
      │     ├乙麻呂
      │     └巨勢麻呂
      │
      │(北家) ┌魚名──末茂──総継──沢子→仁明:光孝母
藤原不比等─┼房前───┼鳥養(夭折)
      │     ├永手──家依
      │     ├真楯─┬真永
      │     │   ├永継(長継)       ┌国経
      │     └御楯 └内麻呂─┬真夏      ├遠経
      │              ├冬嗣──┬長良─┴基経─┬時平
      │              │    ├良房──明子 ├仲平
      │              ├長岡  ├良相  →文徳├忠平
      │              ├愛発  ├良方  清和母├兼平
      │              ├衛   ├良輔     └穏子
      │              ├大津  ├順子→仁明   →醍醐天皇中宮:
      │              └助   │   文徳母   朱雀・村上母
      │                   │
      │                   │       (勧修寺流)
      │(式家)          平城母  ├良門─┬高藤─┬定方──朝頼──為輔
      ├宇合───┬広嗣  →桓武:嵯峨母  ├良仁 ├利世 └胤子 →宇多女御:醍醐母
      │     ├良継──乙牟漏      └良世 └利基──兼輔(曾孫に紫式部)       │     ├清成──種継─┬仲成
      │     │       └薬子
      │(京家) └百川──旅子→桓武:淳和母
      └麻呂

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