向井青江
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向井青江(むかいあおえ)
青江物
由来
- 江戸幕府の船奉行、向井家伝来にちなむ。
向井氏(向氏)は、もと伊勢国国司北畠氏の海賊衆。元亀年間(1570年ごろ)には駿河国持船城主として、武田水軍となっている。天正10年(1582年)に武田氏が滅亡すると徳川家康に召し抱えられている。
来歴
- 天正11年(1583年)北条方の城攻めの際、徳川軍配下の水軍衆向井兵庫頭正綱は北条方の鈴木弾太郎と刀を交え、上顎から下顎にかけて見事に切り落とした。
- 家康もその刀を見ており、切味に驚いた。のちにまた見たいといったところ、向井はすでに青江を手放しており、それを白状したところ家康が二百俵で買い戻してくれたという。
- 正綱の子、向井将監忠勝に伝わる。
- 大阪城攻めが始まろうとする時にその刀の噂を聞いた某が所望するが、承知しなかったという。しかし忠勝が軍船調達に摂津尼崎に出かけている留守を狙って刀を借り出し、大坂で兜首を刎ねたが刃も引けなかったという。その後忠勝に返却している。
- またある時一人の侍が玄関に駆け込んできたため忠勝が何者か問いただすと、その侍がやにわに刀の柄に手をかけたたため、忠勝が袈裟懸けに斬りつけると手をかけた柄もろとも真っ二つにしたという。
- さらに将軍御成のとき、石場の間に侍が隠れていたのを見つけ、抜き打ちに切りつけたところ、石の角を五寸ほど切り割るとともにその侍も仕留めた。
- 青江の刀は嗣子忠宗に伝わり、ある時船中で番衆たちから切味を見せてくれとせがまれる。近くにあった平田舟に八寸ほどの釘が打ってあったので、それに切りつけたところ頭の方三寸ほど切り落としたが刃はなんともなかったという。
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